第二次大戦 - 別離
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 08:31 UTC 版)
「レオノーラ・キャリントン」の記事における「第二次大戦 - 別離」の解説
だが、1939年9月にドイツ軍がポーランドに侵攻したことを受けて、フランスはドイツに宣戦布告。ドイツ人のエルンストは敵性外国人としてフランス当局に逮捕され、ラルジャンティエールの刑務所に収監された。エリュアールはアルベール・サロー(フランス語版)内相に「マックス・エルンストは20年前に二度と祖国の土を踏むことはないと決意し、フランスに移住しました。彼はサロンに出品した最初のドイツ人です」と、エルンストの釈放を求める手紙を書き、この結果、エルンストは数週間で保釈された。だが、ナチス・ドイツがフランスに侵攻すると、再び今度はゲシュタポに逮捕され、ブーシュ=デュ=ローヌ県エクス=アン=プロヴァンスのレ・ミル収容所に送られた。彼は今やドイツにとっても「国家の敵」であった。彼の作品《美しき女庭師》が、ドイツ各地を巡回した退廃芸術展に出品されたのである。同じドイツ人のハンス・ベルメール、フェルディナント・シュプリンガー(フランス語版)、フランツ・ヘッセル(ドイツ語版)も一緒であった。ベルメールはこのとき、代表作《マックス・エルンストの肖像》を描いている。エルンストが救出されたのは、米国のジャーナリスト、ヴァリアン・フライ(フランス語版)の尽力によるものであった。彼は、フランスのユダヤ人や反ナチ運動家らを米国に疎開させるために、エレノア・ルーズベルトの支援によって結成された緊急救助委員会 (ERC) によりマルセイユに派遣され、ブルトン、デュシャン、ペレ、マルク・シャガールら2,000人以上を主に米国に亡命させた。エルンストはこのとき、ペギー・グッゲンハイムから経済的支援を受け、渡米後1942年に彼女と再婚する。 一方、愛するエルンストを失ったキャリントンは深い絶望に陥り、しかも、彼女もまた外国人であったために、英国人の友人の助力によりスペインに亡命した。だが、マドリードに着いたとき、強い不安や被害妄想に襲われ、カンタブリア州サンタンデールの精神病院に収容された。彼女は後にこのときの症状や治療について『ダウン・ビロウ』を著し、「マックスが収容所に連れて行かれたとき、苦しみのあまり緊張病(カタトニー)のような状態になって、もう、尋常な世界ではなく別の場所にいて苦しんでいるような感じであった」と回想している。乳母メアリー・カヴァナが彼女を英国に連れ帰るために渡西したのはこのときのことだが、キャリントンは退院すると、スペインからモロッコ、さらにリスボンに逃亡し、同地のメキシコ大使館に向かった。かつてパリでピカソを介して知り合ったメキシコ人外交官レナト・ルデュク(スペイン語版)に会うためであった。1941年にルデュクは彼女を「外交官の妻として」米国に亡命させるために結婚した。
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