第二回使節とは? わかりやすく解説

第二回使節

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 16:00 UTC 版)

元寇」の記事における「第二回使節」の解説

1268年文永5年至元 5年正月高麗使節団大宰府到来大宰府鎮西奉行少弐資能大蒙古国皇帝奉書日本呼称蒙古国牒状)と高麗国王書状、使節団代表の潘阜添え状の3通を受け取り鎌倉送達する鎌倉幕府では、この年3月北条時宗八代執権就任したばかりであった当時国政は、外交朝廷担当であったため、幕府朝廷国書回送した。朝廷幕府仲介職である関東申次西園寺実氏幕府から国書受け取ると、院政布く後嵯峨上皇に「異国のこと」として提出した蒙古国書への対応を巡る朝廷評定ひょうじょう)は連日続けられた。 幕府では蒙古人が凶心を挟んで本朝日本)を窺っており、近日牒使を派遣してきたとして、蒙古軍襲来備えて用心するよう御家人らに通達した。鎌倉には南宋より禅僧渡来しており、これらの南宋僧侶による進言や、大陸におけるモンゴル帝国暴虐などの報告もあったとされる日本側から反応無かったため、太宰府到来から7か月後に使節団高麗へ帰還しており、高麗は遣使の失敗の旨をクビライ報告している。 同1268年文永5年至元5年5月クビライ使節団帰還待たずして「朕、宋(南宋)と日本とを討たんと欲するのみ」と日本征服意思表明し高麗戦艦1,000艘(そう)の造船命じている。また同年10月には、クビライ高麗厳命した軍兵10,000戦艦1,000艘の軍備整えば「或いは南宋或いは日本、命に逆らえ征討す」と述べ、さらにモンゴル帝国官吏高麗派遣して朝鮮半島黒山島より日本侵攻ルート調査させた。 同年第2代皇帝オゴデイ窩闊台以来懸案であった南宋侵攻開始1273年文永10年至元10年)に南宋襄陽樊城陥落するまで激戦展開された(襄陽・樊城の戦い)。

※この「第二回使節」の解説は、「元寇」の解説の一部です。
「第二回使節」を含む「元寇」の記事については、「元寇」の概要を参照ください。

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