競技クイズの発展と「前フリクイズ」の誕生(1993年 - 1995年)
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ここまで、オープン大会は関東のみ行われており、他の地域で開催されたことは無かった。そのため、関東は大学のクイズ研究会の交流が盛んであったが、他の地域は、サークル間の交流が乏しかった。このことを問題視していた、当時同志社クイズラバーズに所属していた長束恭行は、大会の交流促進によって関西の状況を改善しようと考え、1993年に、関西初のオープン大会である「関西学生クイズオープン」を開催した。この大会を皮切りに、1994年からいくつものオープン大会が関西でも開催されるになっていった。また、クイズプレイヤーの川田耕太郎によれば、同大会の演出やルール、問題などの多くの面で現在のオープン大会の在り方を決定づけた大会だとみられている。 関西でもオープン大会が開催されるようになったが、地域によって「オープン大会」に対する考え方は異なっていった。1994年当時の関東では「押し頃の早押し問題で、スピード勝負を繰り広げる大会こそがオープン大会」であるという価値観であったが、関西では「使い古された問題を使わず、参加者が実力測定にふさわしいと納得できる新作問題を用意する大会がオープン大会」であるという価値観だった。また、ウルトラクイズに憧れてクイズを始めたものの、参加することが出来なかった大学生達によって、自給自足的に大会を作る流れがこの頃から加速し始める。1994年6月に立命館大学で開催された大会「第1回わだつみ杯」、同年の10月8日に久保隆二が主催した「第一回久保隆二杯」で、オープン大会として初めて「前フリクイズ」が使用された。ただし、その前段階として「クイズ番組「史上最強のクイズ王決定戦」の第7回から第9回の間に、既に前フリクイズの問題が出題されていた」と堀家敦は『Quiz Japan vol.13』での対談で考察している。また、同年の10月15日に同志社大学で開催された大会「ナゾラーカップ」で、「既存の枠を超えた難問」をオープン大会として初めて使用された。この大会を皮切りに、「既存の枠を超えた難問」が注目されるようになっていった。これは、クイズ番組が行っていた「問題の固定化」の反動であると徳久倫康は推察している。 当時の前フリクイズの例 「マリキー暦」という暦を考案するなど天文学者としての功績もある、イギリスの詩人フィッツジェラルド(英語版)の訳によって世界中に知られるようになった詩集『ルバイヤート』の作者であるインドの詩人は誰?〔ママ〕A. ウマル・ハイヤーム 『アスワンカップ』の問題 1995年4月29日に名古屋で開催された「アスワンカップ 」によって、それまで関西でしか普及していなかった「前フリクイズ」が関東へと普及していった。関東に前フリクイズを初めて持ち込んだ永井荘一郎は、『Quiz Japan』の取材で「ベタ問ばかりではスピードで勝負がほぼ決まってしまう。そこに前フリを加えるという工夫により、「知識」と「スピード」の両方で勝負することになり、クイズの競技性が高まると考えていました。」と語っている。同年6月に、名古屋でクイズサークル・QUAPSが結成された。このクイズサークルは、それまでのクイズサークルと違い、例会で出された問題をまとめた会報をコピーフリーとして、自由にやりとりすることを許可する「会報公開主義」をとった初のサークルであった。その後、QUAPSの会報やアスワンカップの問題集がクイズの勉強道具として使われるようになっていき、「前フリクイズ」が当時のクイズ界隈の主流となっていた。
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