立照講を解消、真言宗醍醐派へとは? わかりやすく解説

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立照講を解消、真言宗醍醐派へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/16 09:07 UTC 版)

真澄寺」の記事における「立照講を解消、真言宗醍醐派へ」の解説

1938年昭和13年10月4日東京府より「教会設立認可許可書」が下附された。これと同時に立照閣解消して、「真言宗醍醐派 立川不動尊教会」を設立した落慶法要は翌1939 昭和14年2月5日執行された。導師には醍醐本山から特派阿闍梨として吉田眞僧正願文奏上 伊藤天晴、経頭を 天明教会主管 浦野法海のもとに厳修された。同年4月7日、「宗教団体法」が公布され神道系 13仏教系 28キリスト教系 2、計 43教派教団統合された。設立時昭和13年から太平洋戦争終結昭和20年8月までの8年間は日本戦時下にあり、国家による宗教規制強化される時勢のさ中にあった。この間伊藤真乗相承資格獲得につとめ、1939昭和14)年10月醍醐寺において、第九十六醍醐寺座主三宝院門跡 佐伯恵眼大僧正を大祇師に「最勝慧印三昧耶灌頂」を畢えた。1941昭和16)年3月末日付、醍醐派管長辞令のもとに、荒廃瀕していた北多摩郡村山村中藤武蔵村山市中央)の修験堂刹「一住坊常宝院」の特命住職拝命[1][1]、晋山した。この時、佐伯恵眼門跡は、真乗を権少僧都任ずるとともに、自ら箱書したためた金剛界胎蔵界両部曼荼羅」を贈った新参真言行者としての出家得度から、まだ5年満たない乗法印にとって、本山意向異例扱いであったと言えよう。 1943年昭和18年3月5日同じく醍醐寺座主三宝院門跡 佐伯恵眼大僧正を傳戒大阿闍梨に「金胎両部伝法灌頂」を承け真言密教秘法を法畢、阿闍梨となった(のち大阿闍梨)。

※この「立照講を解消、真言宗醍醐派へ」の解説は、「真澄寺」の解説の一部です。
「立照講を解消、真言宗醍醐派へ」を含む「真澄寺」の記事については、「真澄寺」の概要を参照ください。

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