立照講を解消、真言宗醍醐派へ
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「真澄寺」の記事における「立照講を解消、真言宗醍醐派へ」の解説
1938年(昭和13年)10月4日に東京府より「教会設立認可許可書」が下附された。これと同時に、立照閣を解消して、「真言宗醍醐派 立川不動尊教会」を設立した。落慶法要は翌1939 昭和14年2月5日執行された。導師には醍醐本山から特派阿闍梨として吉田眞峰僧正、願文奏上 伊藤天晴、経頭を 天明教会主管 浦野法海のもとに厳修された。同年4月7日、「宗教団体法」が公布され、神道系 13、仏教系 28、キリスト教系 2、計 43の教派教団に統合された。設立時の昭和13年から太平洋戦争終結の昭和20年8月までの8年間は日本は戦時下にあり、国家による宗教規制が強化される時勢のさ中にあった。この間、伊藤真乗は相承資格の獲得につとめ、1939(昭和14)年10月に醍醐寺において、第九十六世醍醐寺座主、三宝院門跡 佐伯恵眼大僧正を大祇師に「最勝慧印三昧耶灌頂」を畢えた。1941(昭和16)年3月末日付、醍醐派管長の辞令のもとに、荒廃に瀕していた北多摩郡村山村中藤(武蔵村山市中央)の修験堂刹「一住坊常宝院」の特命住職を拝命[1][1]、晋山した。この時、佐伯恵眼門跡は、真乗を権少僧都に任ずるとともに、自ら箱書をしたためた「金剛界・胎蔵界両部曼荼羅」を贈った。新参の真言行者としての出家得度から、まだ5年に満たない真乗法印にとって、本山の意向は異例の扱いであったと言えよう。 1943年(昭和18年)3月5日に同じく、醍醐寺座主、三宝院門跡 佐伯恵眼大僧正を傳戒大阿闍梨に「金胎両部伝法灌頂」を承け、真言密教の秘法を法畢、阿闍梨となった(のち大阿闍梨)。
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