立浪部屋で初土俵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 03:07 UTC 版)
立浪部屋への入門が決まった緒方少年だったが、1939年1月場所4日目に安藝ノ海節男が双葉山の連勝を止めたことを知ると、双葉山のような強い関取になることを目標に掲げるようになった。入門時の体重は71kgだったが、入門直前の緊張から3kgも減ってしまった。これでは新弟子検査で合格しないと感じた緒方少年は、検査直前に飯や水を口にして増量を図るも1.5kg不足してしまった。検査を担当した若者頭が鳴戸に目配せして合格を頼んだが聞き入れてもらえず、さらには力士を諦めて床山になることを勧められた。当時は入門者が殺到していたので検査も厳しく、体重の目溢しなどしてもらえなかった。さらに自費養成力士制度もなかったのも緒方に対して不利に働いた。 それでも力士になる夢を諦めなかった緒方少年は、翌場所も新弟子検査を受験して合格し、1940年1月場所で初土俵を踏んだ。四股名は郷里・北海道に因んで「北ノ海」にする予定だったが、同名の者が前相撲の初日にいたことが判り、「北ノ洋」に変更した。
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