空調機器の拡大
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/01 08:24 UTC 版)
パッケージエアコンの開発は1951年(昭和26年)であるが、その後、三菱電機、日立製作所、新三菱重工と相次ぎ、各社とも全国の電話局の自動交換機用がターゲットであった。1953年(昭和28年)10月に福岡県香春電話中継局用を納入したのを皮切りに、日本電電公社の要求水準に応えるべく全力を尽くし、一時電電公社納入エアコンの70%の占めるまでになった。そのほか、銀行や料亭、パチンコ店などへも納入し1958年(昭和33年)にはエアコン売上高は冷凍機部門の50%以上となった。このほか、漁船や商船への冷凍機納入も相次いだが、大型ターボ冷凍機への進出は出遅れ、1962年(昭和37年)10月の開放型ターボ冷凍機の住友化学茨木工場への納入が初めてであったが、その後、米国ウォーシントン社と技術提携し、1965年(昭和40年)から密閉型ターボ冷凍機の発売を開始した。1958年(昭和33年)1月には一般家庭向けのロータリーコンプレッサーを使用したウィンドクーラーを開発したが独自の販売網を持たないため、大阪金属ブランドの「ダイキンエヤコン」のほか、日本コロムビア、日本電気、安川電機、八欧電機の各社ブランドで併売したが、採算の悪化もあり1966年(昭和41年)3月にはいったん外販を打ち切り、改めて百貨店や量販店ルートを開拓して販売促進を図る一方、1973年(昭和48年)3月から各地に自前の空調機だけの販売会社を新設して売上増強を図った。
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