空とぶ絵師・貞秀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 15:11 UTC 版)
天保年間後半からは「日本八景づくし」や「大江戸十景」など、俯瞰構図を取る作品を描く。嘉永2年(1849年)の人気番付では、歌川国芳、歌川広重、二代目鳥居清満、二代目柳川重信、そして貞秀が幕内になっているが、その後慶応3年(1867年)のパリ万博に出品の際には歌川芳宗と共に浮世絵師の総代となっている。 幕末期は美人画や役者絵の他、安政・文久年間に横浜絵、開化絵を多く残している。{{要出典範囲北海道松前から九州まで自ら歩いて、「奥州一覧之図」、「肥前長崎丸山廓中の風景」あるいは「大日本国郡名所」の他、各種の詳細な鳥瞰一覧図、名所図を刊行するなど、当時における旅行家の一人でもあった|date=2021年8月}}。明治元年(1868年)の絵師番付「東京歳盛記」において、貞秀は第1位になっている。 貞秀の横浜絵は100点余りで、点数としては歌川芳虎、歌川芳員に次ぐが、細密な描写と画面構成が高く評価されている[要出典]。代表作として安政6年(1859年)の「御開港横浜大絵図」、文久2年(1862年)の絵入本「横浜開港見聞記」、「万象写真図譜」などがあげられる。晩年の明治6年(1873年)には「小学譜誦十詩」に銅版で口絵を描いている。明治8年(1875年)、『文明開化道中袖かが見』の挿絵を描いたが、その後のことは一切不明である。享年73か[要検証 – ノート]。弟子についてもよく分かっておらず、わずかに万延元年に「木曽山中合戦」を制作した歌川秀輝が門人とされる。
※この「空とぶ絵師・貞秀」の解説は、「歌川貞秀」の解説の一部です。
「空とぶ絵師・貞秀」を含む「歌川貞秀」の記事については、「歌川貞秀」の概要を参照ください。
- 空とぶ絵師貞秀のページへのリンク