科研費審査委員の推薦拒否
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 12:56 UTC 版)
「日本学術会議」の記事における「科研費審査委員の推薦拒否」の解説
文部省で1967年に学術審議会(当時は茅誠司が会長)が新設された頃、1968年度から科研費の審査方法や審査委員の選出方法を変更することになっていた。審査委員の選出方法について学術会議は文部省と対立。文部省は「学術会議が定数よりも多い候補者を推薦し、文部省がその中から選んで任命する」案を提示したが、学術会議側は「(学術会議が推薦した候補者を)文部省は選別しないでそのまま任命する」修正案を要求した。学術審議会の茅会長は仲裁のため学術会議側の案に近い茅提案を出すが、学術会議は応じなかった。 当該年度から科研費が大幅に増額されたため(前年度の約41億円から約50億円へ増額)、文部省側にはその審査を急ぎたい事情があったが、学術会議は「新方式は学術会議のフィロソフィにかかわる重大な変更であり、十分な検討を要する以上、本年度の審査委員推薦には応じられない」と回答した。当初、学術会議の研究費委員会は新方式に好意的であったため、文部省側で科研費特別委員会主査として折衝していた元東京大学物性研究所 所長の武藤俊之助は、「あれは背信行為」と後々まで語っていた。 なお、学術会議側には「学問研究の官僚統制、個々の研究者の政治支配を可能にする、と疑われても仕方のない改訂」という認識があった。一方で、文部省の原現吉は1982年の著書で、学術会議では茅提案を受け入れる意見が大勢であったが少数意見がそれを覆したことを指摘し、学術会議の一部の勢力は問題を大きくして文部省に責任を負わせ、科研費の審査権限を文部省から取り上げようとする謀略を持っていたのではないかと推測している。 1968年4月には、学術会議会員と学協会代表が懇談する「科学研究費補助金に関する懇談会」を開催し、会長の朝永振一郎が状況を説明。そこでも学術会議側の対応が支持された。結果的に学術会議は同年度の委員推薦を「事実上拒否した形」になり、文部省側が審査委員の選定にあたることになった。実質的には学術審議会と各種学協会が選定を担ったが、協力を拒否した学協会もあった。また、後に科研費が採択されても新方式に反対だからと科研費を辞退した研究者の事例も3件あったという。 なお、本件は各種新聞でも大きく報道され、全体的に旧方式に関しては否定的な論調であった。学術会議と文部省の対立については、「学問の自由を侵される」という見解を載せる新聞もある一方で、1968年3月29日付の『朝日新聞』の社説は、学術会議は自己反省や謙虚さに欠け「国民大衆を忘れ」ていると指摘し、会員の老害化により「一般研究者からも次第に遊離されつつある」とし、学術会議は国民の関心も失いつつあるという批判を掲載していた。
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