秋田城の停廃問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/09 14:47 UTC 版)
呰麻呂の反乱の以前から現在の東北地方の情勢はかなり不穏であり、呰麻呂の乱に先立つ宝亀5年(774年)には、海道蝦夷が反乱して桃生城を襲撃した。後世、「三十八年戦争」とも称される苛烈な戦乱の時代はこの時既に始まりを迎えていたのであり、そもそも呰麻呂や伊佐西古が政府から叙位を受けていたのも、そのような情勢下で政府側に立って活動した功績を嘉されてのことである。 出羽国においても、宝亀2年(771年)の渤海国使来着を伝える記事の中で「出羽国賊地野代」(現在の秋田県能代市にあたる)と記されており、従前は秋田城の支配下にあった野代がこの時期政府の支配から離脱して「賊地」となっていた。この野代の蝦夷からの圧迫により、秋田の百姓が攻撃される恐れがあったので、秋田城を停廃して、民衆を河辺郡に移そうとする考えが宝亀初期より存在した。百姓が移住を嫌がったので宝亀11年まで移住を実現できず問題が先送りとなっていたが、当事国である出羽国としては、秋田城の維持にかかる負担は過重だったのである。この秋田城の停廃問題であるが、この宝亀初期から宝亀11年(780年)まで継続して停止状態にあったとみる見解と、宝亀7年(776年)頃までに一度復活しその後宝亀9年(778年)以後に再度停止したとみる見解があるが、今泉隆雄は後者の見解を採用している。 このように秋田城の存廃と、その周辺住民の先行きが揺れ動く中で、秋田城の支配下にあった蝦狄の志良須、俘囚の宇奈古らは、安倍家麻呂に対し秋田城廃止による不安を訴え、このまま城が永久に放棄されてしまうのか、元のように保つことはできないのかと言上している。彼らのように政府側に帰属する蝦夷系住民にとって、城の廃止は敵対する集団から攻撃される危険を招き、まさしく死活問題だったのである。家麻呂はこの訴えを政府に伝えて対応を求めた。政府からの回答は、秋田城は久しく敵を防ぎ民を守ってきたものであるから、放棄するのは得策でないとし、これを廃止せずに暫定的な措置として鎮狄将軍の率いる兵を駐屯させて鎮守させ、また鎮狄使か出羽国司の一人を駐在させて専当官とするべしという内容であった。加えて、由理柵(現在の秋田県由利本荘市にあったと推定される城柵)にも兵士を駐屯させ、秋田城と相互に救援するよう命じている。 秋田城の暫定的な維持が決定した一方で、由理柵の防備が命じられているのは、既に秋田城以南の情勢も不穏になっていたことを示すものである。同様のことは更に南側の大室塞(現在の山形県尾花沢市付近にあったと推定される城柵)でも起きており、宝亀11年12月には光仁天皇からその防御を命じられることとなる。由理や大室といった、出羽国中部の地域も「賊の要害」(敵の攻撃を防ぐための場所)と呼ばれる最前線へと変貌したことになる。しかしながら記録上鎮狄使の活動が見られるのはこの時までで、翌年5月に安倍家麻呂が上野守に任じられていることから、それまでには出羽国に派遣された鎮狄使は任務を終了していたと考えられる。
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