秋田城国府説と非国府説について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/23 00:07 UTC 版)
「秋田城」の記事における「秋田城国府説と非国府説について」の解説
8世紀の秋田城に出羽国の国府が置かれていたかどうかは、学説上の争点となっている。これは『日本後紀』および『日本三代実録』において、延暦年間に出羽国国府を移転した旨が記されていることに端を発する。『日本後記』では804年(延暦23年)11月癸巳の条において、秋田城を停廃し郡制を布いて機能を河辺府に移転したことが、『日本三代実録』では887年(仁和3年)5月20日の条に、出羽郡井口にある国府は延暦年間に造営されたことが、それぞれ記されており、この二条の解釈によって、秋田城に国府が置かれたとする学説が現れることとなった。なお、国府説、非国府説の両者ともに、712年(和銅3年)の出羽国設置時の国府は出羽柵であること、延暦年間以降は国府が出羽郡井口(=城輪柵)にあったということで見解が一致しており、争点となっているのは出羽柵が秋田に移転する733年(天平5年)から、「延暦年間」までの出羽国府の所在地ということになる。
※この「秋田城国府説と非国府説について」の解説は、「秋田城」の解説の一部です。
「秋田城国府説と非国府説について」を含む「秋田城」の記事については、「秋田城」の概要を参照ください。
- 秋田城国府説と非国府説についてのページへのリンク