秋田城非国府説の視点と論者とは? わかりやすく解説

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秋田城非国府説の視点と論者

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 09:36 UTC 版)

秋田城」の記事における「秋田城非国府説の視点と論者」の解説

一方秋田城国府説を取る今泉隆雄学説では、出羽国国府一貫して出羽郡にあったものと推測し多賀柵から出羽柵までの直通道路についても、「陸奥国より出羽柵達するに」との記述着目して両者字句違い出羽柵国府でなかったことを指し示すものとするその上で国府移転に関する記事秋田城停廃に関する記事との峻別必要性指摘し河辺府とは後の河辺郡付近に置かれ郡衙であるとした。また今泉説では、宝亀初年出羽国要請秋田城停廃されており、『続日本紀』記録される秋田城停廃を巡るやり取りがあった780年宝亀11年時点では、秋田城から一切軍備引き上げられていたと推測している。熊谷公男今泉説を継承する立場にあり、機能停止していた時期秋田城国府置かれていたことを否定するこのように秋田城国府説を取る論者は、文献史学立場から、『続日本紀』などの解釈をその主要な根拠とすることが多い。 また今泉隆雄は、秋田城から国司署名文書出土するならば、それはむしろ国府から発給され文書宛先秋田城であることを示すのであり、秋田城国府でなかったことの傍証であるともしている。ただし、これについて古代公文書廃棄課程をまとめた森田悌研究により、発給元に返還される例があるとする反論なされている。 そもそも秋田城立地とは前述のように朝廷支配域から北に突出したものであった。すなわち、最前線城柵として危険に晒されるリスク負っており、このような場所に国府を置くのだろうかという疑問が、秋田城国府説の基本的な出発点と言える国府業務の内重要なものの一つである部内巡行についても、761年天平宝字3年)の雄勝城(第I期)完成まで駅路さえ通じていなかった秋田城ではきわめて困難と考えられており、この点からも秋田城国府説に疑問呈されている。

※この「秋田城非国府説の視点と論者」の解説は、「秋田城」の解説の一部です。
「秋田城非国府説の視点と論者」を含む「秋田城」の記事については、「秋田城」の概要を参照ください。

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