秋田を出奔とは? わかりやすく解説

秋田を出奔

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 01:11 UTC 版)

平田篤胤」の記事における「秋田を出奔」の解説

久保田藩大番組であった大和田清兵衛祚胤(としたね)の四男として秋田郡久保田城下の中谷地町(現在の秋田市中通4丁目)に生まれた生家大和田家は、朱子学奉じ国学神道とは無縁であった故郷捨て江戸出奔する20歳のときまでの事跡はっきりしないが、現存する史料から不幸な幼少期示されている。諸書には久保田藩医師侍講でもあった中山菁莪門下だったとあるものの、秋田時代の篤胤の経歴はほとんどすべて養子平田銕胤記述をもとにしている。ただし、自著仙境異聞』(1822年)において「己は何ちふ因縁生れなるらむ」と嘆いており、天保13年1842年11月2日の銕胤にあてた手紙には、「生れ落より父母の手には育てられず、二十になる正月八日に、かねて五百文こしらひ置たる銭を以て書置をして欠落し江戸へ出たが」とあり、貧しさのなかで捨て子同然少年時代送った考察されてもいる。また、継母との折り合いがわるかったという見解もある。 20歳になったばかりの寛政7年1795年1月8日脱藩出奔し遺書して国許去った正月八日家を出るものは再び故郷帰らない、という言い伝えにちなんだという。江戸出た篤胤は、大八車引いたり、5代目市川團十郎飯炊き三助火消しなど苦学しながら当時最新学問、とくに西洋医学・地理学天文学学びつつ、旗本某氏武家奉公人となった寛政12年1800年)、篤胤25歳のとき、勤め先江戸在住備中松山藩士で山鹿流兵学者であった平田藤兵衛篤穏(あつやす)の目にとまり、才覚認められて、その養子となった養子となったいきさつには様々な伝説があるが、詳細不明である。このころ駿河沼津藩石橋常房の娘・織瀬と出会う当時織瀬は旗本屋敷奥勤めをしており、篤胤は同家しがない奉公人であったが、やがて2人深く愛し合うようになり、享和元年1801年)篤胤26歳のとき、結婚した

※この「秋田を出奔」の解説は、「平田篤胤」の解説の一部です。
「秋田を出奔」を含む「平田篤胤」の記事については、「平田篤胤」の概要を参照ください。

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