秋田への転封
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 22:46 UTC 版)
「佐竹義宣 (右京大夫)」の記事における「秋田への転封」の解説
慶長7年(1602年)3月、義宣は大阪城の豊臣秀頼と徳川家康に謁見した。その直後の同年5月8日、義宣は家康から国替えの命令を受けた。しかし転封先は明らかにされず、従って転封後の石高も不明だった。そこで義宣は、家老の和田昭為に宛てた書状の中で、譜代の家臣にも従前のような扶持を与えることはできないであろうことや、50石または100石取りの給人については転封先に連れて行かないことなどを述べている。 5月17日、転封先が出羽国秋田郡に決定した。54万石から20万石への減転封であった。ただし、佐竹氏の正式な石高が決定されたのは、佐竹義隆の代になってからである。 佐竹氏の処遇決定が他の大名家と比較して大幅に遅れた理由については諸説あり、この時期になって初めて上杉氏との密約が発覚したとする説や、島津氏に対する処分を先行させることで島津氏の反乱を抑える狙いがあったとする説がある。また、佐竹氏が減転封された理由としては、無傷の大兵力を温存していた佐竹氏を江戸から遠ざける狙いがあったとする説がある。
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