禊祓の神・和歌の神としての信仰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 04:28 UTC 版)
「住吉大社」の記事における「禊祓の神・和歌の神としての信仰」の解説
住吉大社は別の神格として、禊祓の神・和歌の神としても信仰された。禊祓の神としての信仰は、『古事記』・『日本書紀』のイザナギの禊による筒男三神の誕生神話に顕著で、現在も例祭の住吉祭では祓の意味を込めた神事が斎行される。その性格の顕在化として、難波の八十島祭(平安時代-鎌倉時代の天皇即位儀礼の一つ)への住吉社の関与を指摘する説もある。 和歌の神としての信仰は、平安時代頃から見られるものになる。元々住吉はのちに「住吉の松」と歌枕で歌われるように風光明媚な地であったが、平安時代中頃の遣唐使停止で航海の神としての性格が薄れる一方、そうした土地柄から貴族の来遊や熊野詣時の参詣を受けていつしか和歌の神として信仰されるようになり、特に住吉明神のほか玉津島明神・柿本人麻呂の3柱は和歌の守護神として「和歌三神(わかさんじん)」と総称されるようになる(3神の選定には異伝承もある)。古くは昌泰元年(898年)に宇多上皇が住吉社に参詣した際に和歌を献じたほか、長元8年(1035年)には藤原頼通邸での歌合に勝った公達が住吉社に御礼参りをして和歌を詠じるなど、平安貴族が度々京都から参詣に訪れていた。また住吉社は『伊勢物語』、『源氏物語』須磨巻・明石巻・澪標巻、『栄花物語』殿上の花見巻・松のしづ枝巻など多くの物語にも登場する。さらに前述のように院政期以降の熊野詣では途中に住吉社に寄って和歌を献じる例があったほか、住吉社神主の津守氏からも津守国基などの歌人が出ている。なお住吉関係の歌では、歌枕「住吉の松」など松が多く登場するが、これは住吉社の松が神木とされたことに由来する。 そのほか、石上乙麻呂が土佐国に流されたに詠まれた『万葉集』に見えるように神が現世に顕現するという現人神信仰があったほか(白髭の老翁として描かれることが多い)、平安時代からは祈雨の神とする信仰もあり、また当地の地主神として御田植神事に見られるような農耕の神とする信仰もある。
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