神明宮 (横浜市神奈川区)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/23 02:41 UTC 版)
| 神明宮 | |
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| 画像募集中 | |
| 所在地 | 神奈川県横浜市神奈川区東神奈川2-34-6 |
| 位置 | 北緯35度28分42.2秒 東経139度38分13.1秒 / 北緯35.478389度 東経139.636972度座標: 北緯35度28分42.2秒 東経139度38分13.1秒 / 北緯35.478389度 東経139.636972度 |
| 主祭神 | 素盞嗚尊、大日孁尊 |
| 社格等 | 旧村社、神饌幣帛料供進指定社 |
| 創建 | 1299年(正安元年) |
| 本殿の様式 | 神明造 |
| 別名 | 神明さま、東神奈川神明宮 |
| 例祭 | 8月第4土-日曜日 |
| 地図 | |
神明宮(しんめいぐう)は神奈川県横浜市神奈川区にある神社。境内を流れていた上無川(かみなしがわ)は、「神奈川」の由来の一説でもある。
祭神
歴史
1299年(正安元年)の勧請と伝わる[1]。 別当寺だった能満寺も同年創建と伝えられ[1]、創建から密接不離な関係があったと思われる[2]。上無川に流れて来た牛頭天王像の話が伝わる。概略は以下。
上無川に流れて来た牛頭天王像を拾った村人は、祟りを畏れてまた川に流してしまったところ、一家悉く眼病に罹ってしまった。神罰かと、下流から海中まで探したが見つからず、代わりに見つかった神面を祀ったところ、忽ち眼病が平癒したため、この宮を神面社と称した。ところが、村は大いに荒れたので、神面は境内へ埋め、神明社と改称して大神宮を祀るようになった。以来、当地を荒宿と称し、上無川に棲む片目の鰌を食べると眼病を患うといわれた。
—『横浜の伝説と口碑 下』上無川の片目の鰌(横浜郷土史研究会、1930年)NDLJP:1456827/21
江戸時代、相殿に素盞嗚尊を勧請した。
1868年(慶応4年)の神奈川大火で全焼するも復興し、1885年(明治18年)村社に列せられ、1922年(大正11年)神饌幣帛料供進社に定められた。[2] 1923年(大正12年)の関東大震災と1945年(昭和20年)の横浜大空襲でも大被害を受ける。
社殿・境内
天一坊改行の悪事の企てに応じて江戸へ向かった赤川大善は、神奈川宿の旅籠で同宿した若い女旅人を殺して金を奪い、逃げた。旅籠は役所に知れれば闕所になると、死骸を梅林へ埋めて隠した。後日、全てが明白になり、哀れに思った村人が梅の森稲荷を祀ったという。
—『横浜の伝説と口碑 下』梅の森稲荷(横浜郷土史研究会、1930年)NDLJP:1456827/21
- 上無川 - 境内を流れていた小川。水が少なく水源や上流が定かでなかったため、
上 が無い川、上無川と呼ばれ「神奈川」の由来の一説となった。関東大震災後の復興で埋め立てられた。
祭事・年中行事
- 例大祭 - 8月第4土-日曜日
所在地・交通
神奈川県横浜市神奈川区東神奈川2-34-6
脚注と出典
- ^ a b 『新編武蔵風土記稿』巻ノ70橘樹郡ノ13「小机領」(内務省地理局 1884年)NDLJP:1214845/156
- ^ a b 『横浜市史稿 神社編』第4章神社各説 第3節村社(神饌幣帛料供進指定) 9「神明宮」(横浜市役所 1932年)NDLJP:763986/55
関連項目
外部リンク
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