石原千秋
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石原 千秋(いしはら ちあき、男性、1955年11月30日[1] - )は、日本の国文学者[2][3]。専門は日本近代文学。早稲田大学教授。
- ^ 『文藝年鑑2007』
- ^ “【文芸時評】5月号 「コロナ世代」への責任 早稲田大学教授・石原千秋”. www.sankei.com. 産経新聞. 2020年8月2日閲覧。
- ^ “人が意識していないものを現すのが、文学。もっと社会への発信力を”. www.wakuwaku-catch.jp. 河合塾. 2020年8月2日閲覧。
- ^ “「尚絅大学設立40周年記念講演会」の開催について”. 尚絅学園 (2015年11月12日). 2023年2月16日閲覧。
- ^ 日本海軍航空隊
- ^ 『みすず』2018年1・2月号「2017年読書アンケート」68p
- ^ 『教養としての大学受験国語』筑摩書房、7、15頁,298頁頁。ISBN 9784480058539。
- ^ researchmap - 石原千秋 http://researchmap.jp/read0044380/
- ^ 高田瑞穂『新釈現代文』 ちくま学芸文庫 p.252
- ^ 石原千秋『教養としての大学受験国語』に、「二浪を覚悟したとき、新聞広告で成城大学の二期試験が三月にあることを知った」(299頁)、「発表の日、僕の受験番号はなかった。すぐ帰ろうとしたが、まわりを見ると、掲示板を見て立ちつくしている。『あんなふうにするものなんだ』とか『あんなにできても落ちるんだ』とか呟きながら掲示板を見ていると、夕方の光線の加減で末尾の『七』が『三』に変わったのだ。『いまのうちだ!』僕は大慌てで受験票を合格書類と取り替えた」(299-300頁)とある。
- ^ 石原千秋『反転する漱石』(1997年)に、「大学院生時代からあたたかく見守って下さっている東郷克美先生に私の漱石論をまとめて読んでいただけるのは大きな喜びである」(386頁)とある。あるいは、石原千秋『百年前の私たち』に、「この連載をはじめたとき、恩師の東郷克美先生が『連載、好調なスタートだね』と声をかけてくださった」(268頁)とある。
- ^ 山梨県立文学館 - やまなし文学賞 過去の受賞作 http://www.bungakukan.pref.yamanashi.jp/prize/%E6%96%87%E5%AD%A6%E8%B3%9E%E9%81%8E%E5%8E%BB%E5%8F%97%E8%B3%9E%E4%BD%9C.pdf
- ^ 学校法人成城学園企画広報部編『sful 成城だより』vol.5(2015年7月)「対談 石原千秋×荻上チキ『文学を通して世界を見るその目はここで鍛えられた』」(10-13頁)に、「石原 荻上君が僕の講義を受けたのは2年生の演習からだったかな」、「荻上 僕は石原先生に、体系を学ぶと世界の見え方が違うことを教わって、齢20にして勉強は面白いんだと目覚めました」(12頁)とある。
- ^ 石原千秋『漱石と日本の近代(下)』に、「成城大学時代の私の恩師の一人・明治四十年生まれの坂本浩は、昭和四年に熊本の第五高等学校を卒業して東京帝国大学の文学部国文学科に進学したまさに小川三四郎のような人で、近代文学研究の草分け的存在だった」(166頁)とある。
- ^ 石原千秋『学生と読む『三四郎』』に、「その昔、深作健太という名の学生が(彼はもう『公人』だから、名前を言ってもいいだろう)、僕の演習の授業で横光利一の『上海』のレポートを書いたことがある。しかし、何度読んでもヘンなのである。[…]僕にはそれがまったく理解できなかったから、黙って九十点を付けた」、「その後彼は僕のゼミに来て、一度も論文指導を受けずに『悦びの王権』というタイトルの谷崎潤一郎『細雪』論を書いた。[…]個性的な文体で、みごとな完成度を示していた。卒業論文の試問では、副査の教員が『修士論文としても十分通用する』と感嘆の声をあげた。その経験から、『僕には天才は育てられないし、評価もできない。だから、ただそっとしておくのがよい』という教訓を得た」(110頁)とある。
- ^ 石原千秋『教養としての大学受験国語』に、「僕が大学受験をした昭和四十九年から五十年頃には、後に大学で僕自身の恩師の一人となる高田瑞穂先生の『新釈 現代文』(新塔社)という本が、大学受験国語参考書の定番だった」(8頁)とある。あるいは、石原千秋『生き延びるための作文教室』に、「高田瑞穂先生。実は、ぼくの大学時代のゼミの先生である」(21頁)とある。
- ^ 石原千秋『教養としての大学受験国語』に、「もう三十年も前のことになるが、東京の西のはずれにある狛江という小さな町の中学校で、僕は詩人の牟礼慶子に『国語』を教わる幸運に恵まれた」(298頁)とある。あるいは、石原千秋『生き延びるための作文教室』に、「ぼくが作文が得意だと自覚したというか、文章を書くのが好きになったのは中学二年生の時だった。その頃ベストセラーだった北杜夫の『どくとるマンボウ』シリーズに凝っていたので、そっくりな文章で作文を書いていた。北杜夫のように上品なユーモアではなく、無理に笑わせようとしてすべっていたと思うが、国語の谷田慶子先生(詩人の牟礼慶子です)がとても面白がってくれた」(15頁)とある。
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