知行概念の発生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 04:35 UTC 版)
9世紀・10世紀頃、統治体制が律令制的な枠組みから、新興階層の富豪層である田堵などに依存した名体制と呼ばれる分権的な体制へ変質していき、11世紀になるとこの流れに、各々の国内の荘園・国衙領への一律的な課税(一国平均役)の動きが加わり、荘園と郡、郷、保に再編成された国衙領を個々の収取単位とする体制(荘園公領制)が成立した。すると、新たにこれらの収取単位を管理し、紛争処理に携わる「領主」という階層が登場するようになり、領主は所領に対して支配権を行使することで、年貢・公事・夫役といった収益を得ていった。このとき、領主が行使した支配権は、知行(ちぎょう)・領知(りょうち)・領掌(りょうしょう)・進止(しんし)などと呼ばれた。 ただし、この当時、領主が行使し得た支配権は決して一様ではなく、領主の地位・身分などによって大きな差があり、一口に「知行」と言っても多様なあり方があった。小は個々の荘園や国衙領を分割編成した名田を百姓身分の名主が知行した。さらに荘園や、郡・郷・保を単位とする国衙領は荘園領主や国司(受領)に任命された荘官・郡司・郷司・保司らが知行して治安維持、租税徴収に当たり、この地位にはしだいに武士が任命されることが多くなって鎌倉時代の地頭につながっていく。さらにその上には荘園領主としていくつもの荘園を知行し、また後述の知行国の形で一国の公領もろとも知行する摂関家や官寺に代表される権門が君臨した。知行や領主とはこのように重層的な体制を構成していたのである。 平安中期頃になると、高級貴族や有力寺社(権門勢家)が、ある国の租税収取権を掌握し、国司を自由に任命する権利を得るようになった。これは知行権が一国単位に拡大したものであり、こうした国を知行国といった。知行国は平安後期に急激に増加した。 中世を通して、所領支配を指して知行・領知・領掌・進止などと呼ぶ慣習は続いていった。これらの語の指し示す範囲については、大きく2つの見解に分かれている。1つは、いずれも領主による所領支配を表していたとする考えである。もう1つは、中世史料を詳細に検討した結果、進止の語が土地支配を意味するのに対し、知行の語は土地からの収益処分を指すものとした見解である。後者には異論も出されているが、この見解に従えば、中世期の支配・収取のあり方をより具体的に理解することができる。
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