知行所の出来事
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耕地拡大の為、山間部の開発も進められていた。開墾しお茶や漆など四木三草と呼ばれる商品作物の栽培も盛んになってきている。また、山は薪などの共同採取地(入会地)で、年貢の対象外で村の境界が曖昧であるため、利権を巡り村同士の訴訟が起こるようになってきた。 駿河国益津郡内の山間部に近い村にも大久保玄蕃知行所があり、坂本村などの村で享保16年(1731年)高草山の入会紛争が起こっている。勝訴した坂本村では翌年の享保17年(1732年)に「坂本村野山掟」が村民によって定められた。 ちなみに時は遡るが四代・大久保忠明のときには享保元年(1716年)に、同じ駿河国益津郡内の大久保家知行所に関わる6村(花沢村、方之上村、坂本村、中里村、小浜村、馬場村)の花沢山の入会紛争が起きている。
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知行所の出来事
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「大久保忠重 (旗本)」の記事における「知行所の出来事」の解説
寛文10年(1670年)、駿河国益津郡内の大久保玄蕃頭領(方之上村、中里村、中村、小浜村、花沢村、馬場村、坂本村)と長崎弥左衛門領の農民が、東海道の丸子宿への助馬(助郷)の役が遠くて難儀との願書を奉行に対して出している。 丸子まで4里ほど離れていて、間に日本坂という山の難所があり、それを越えて前日から丸子で待機し、当日役を勤めたら、その夜も丸子に泊まり、合計3日かかるという。
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