大久保忠明 (旗本)とは? わかりやすく解説

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大久保忠明 (旗本)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/15 22:18 UTC 版)

 
大久保 忠明
時代 江戸時代
生誕 延宝元年(1673年
死没 享保13年3月30日1728年5月8日
改名 日體
別名 四郎左衛門、玄蕃、虎松、式部、忠榮(初名)
氏族 大久保氏
父母 父:大久保忠兼、母:牧野信成の娘
兄弟 忠明、女子(川口宗直妻)、女子(渡辺富義妻→中坊秀広妻)、女子(安藤定房妻)、女子、女子
小浜広隆の娘
式部、忠郷[1]、忠福[2]、女子、女子(伊東祐続妻)、女子(駒井勝門妻→林昌安妻)
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大久保忠明(おおくぼ ただあきら)は、大久保玄蕃知行所の4代目領主、上級旗本通称は玄蕃。宝永3年(1706年)に家督を継ぎ6700石を知行した。将軍家へ刀などを献上した。身内の罪により一時召し預けられた[3]享保13年(1728年)に亡くなる。享年56。

生涯

  • 天和3年(1683年)
  • 宝永3年(1706年)
    • 12月23日 家督を継ぐ
  • 宝永4年(1707年)
    • 2月10日 将軍家に貢物をする
  • 享保元年(1716年)
    • 1月20日 身内の甚三郎某罪により召し預けられる
  • 享保5年(1720年)
    • 8月7日 これを許される
  • 享保13年(1728年)
    • 3月30日 亡くなる。享年56

上記の年表は『新訂 寛政重修諸家譜 第十一』(1965年)を参照に作成した。

将軍家への貢物

旗本は希望のポストに就くために様々な努力をするが[4]、忠明も宝永4年(1707年)2月10日、将軍家に下記の貢物を送っている[3]

知行所の出来事

享保5年(1720年)、国役普請が制度化されたのを受け[5]、大井川、天竜川、富士川、安倍川の普請のため知行地より国役金を集めた。

駿河国益津群の坂本村の林叟院から大久保玄蕃使用人に宛てた享保7年(1722年)の上納届が残っている[6]

脚注

注釈

出典

  1. ^ 6千石を相続。
  2. ^ 兄の忠郷の相続時に700石を分知されて別家を立てた。大久保忠篤は嫡子。
  3. ^ a b 『新訂 寛政重修諸家譜 第十一』(1965年、P401)
  4. ^ [1]『旗本御家人Ⅱ-9就職活動(蜑の焼藻の記)』(国立公文書館HP)
  5. ^ 焼津市史編さん委員会『焼津市史 図説・年表』(2008年、巻末年表P12)
  6. ^ 焼津市立図書館『焼津市近世資料集』(1987年、P44)

参考文献

  • 『新訂 寛政重修諸家譜 第十一』(1965年)
  • 焼津市立図書館『焼津市近世資料集』(1987年)
  • 焼津市史編さん委員会『焼津市史 図説・年表』(2008年
  • [2]『旗本御家人Ⅱ-9就職活動(蜑の焼藻の記)』(国立公文書館HP)



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