瞬滅火花送信機
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/13 16:34 UTC 版)
1906年(明治39年)、0.1mm程度の狭い間隔に放電を起こすと、変圧器で切り離した二次側(空中線回路)に持続電波に近い送信電波が得られる事が、ドイツの物理学者マックス・ヴィーンによって発見されたため、これを応用したもの。火花間隙の放電で生じた多量のガス・イオンの悪影響を除くため、火花間隙に冷却のためのアルコール蒸気や不活性ガスを吹き付ける設計のものもあった。非常に狭い間隙であるため、印加電圧が500V程度の低圧で済むようになり、送信機全体のコストが低減されただけでなく、放電時の爆音問題も同時に解消され、防音対策が十分に取れない船舶局では特に歓迎された。また送信電波に楽音状の音調が伴い、受信が普通火花式よりも容易になったこともメリットである。 ドイツのテレフンケン社製25KW瞬滅火花送信機を購入した日本海軍は、1912年(大正元年)10月に奄美大島南方海域の戦艦「薩摩」GSMと真鶴無線電信所間において通信試験をしたところ、これまで使ったどの送信機よりも優秀であることが認められた。1913年(大正2年)1月、佐世保鎮守府の弓張岳無線電信所で使っていた四三式無線電信機をこの瞬滅火花送信機に据え換えた。また1915年(大正4年)4月に開局した千葉の船橋無線電信所JJCにもテレフンケン社製200KWという当時としては大型の瞬滅火花送信機を採用している。 海軍省における国産の瞬滅火花送信機は1912年に完成した元年式送信機で、大音響で乗組員を悩ませていた四三式無線電信機の普通火花間隙を原始的な瞬滅火花間隙に改良したものである。 逓信省では種々の研究の結果、1912年(明治45年)に佐伯美津留技師が逓信省式瞬滅火花間隙を発明して、翌年その特許を得た。これ以降、逓信省の新設無線局はこの方式を採用し、従来よりの普通火花送信機も順次これに置き換えられた。 逓信省の調査によると、1926年(大正15年)11月1日から1927年(昭和2年)10月30日までの1年間に新設された船舶局259局中、179局(69%)がコストの安い瞬滅火花送信機を設備した。真空管式送信機で開局した船舶局は僅か80局(31%)に過ぎなかった。
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