相馬大作の首塚
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文政4年(1821年)、江戸から帰国途中の弘前藩九代藩主津軽寧親の狙撃未遂事件が発生する。首謀者は盛岡藩の下斗米秀之進、変名「相馬大作」を名乗っていたことから「相馬大作事件」と呼ばれる。 下斗米秀之進は寛政元年(1789年)、盛岡藩二戸郡福岡村(二戸市)に生まれた。秀之進は、18歳で江戸にて剣名高き平山行蔵道場の門下生となり武道に精進、四傑の一人と呼ばれるほどに腕をあげて帰国し、郷里・福岡に講武場兵聖閣を設けて武術の教授を始めた。そんな矢先の文政3年(1820年)、盛岡藩主南部利敬が39歳の若さで世を去り、遺領を南部利用が継いだ。利敬の早すぎる死は、弘前藩に対する積年の鬱憤が原因といわれている。 その積年の鬱憤とは、もともと弘前藩津軽家は、盛岡藩南部家の一族の家柄であったが、南部のお家騒動(後継者選定騒動)の際独立し、豊臣秀吉の小田原征伐陣中に参じて、独立を成功させた事に起因するものであるとされた。 この当時、利用はまだ14歳で無位無官、それに対して「本来家臣筋だ」と南部側は思い込んでいた津軽氏当主の寧親は従四位下侍従に叙任されていた。このことに不満を抱いた秀之進は、寧親に果たし状を送って辞官隠居を勧め、それが聞き入れられないときには「悔辱の怨を報じ申すべく候」と暗殺を伝える。 文政4年、秀之進は江戸から帰国途中の寧親を久保田藩白沢村(のちの矢立村、現・秋田県大館市 白沢駅付近)で狙撃しようと計画するが、仲間の密告によって失敗、藩を出奔して江戸に逃れ「相馬大作」と名を変えたが、同年幕吏に捕らえられ翌年首を刎ねられた。その相馬大作の子息が、晒されていた首を盗んで来て、妙縁寺住職へ埋葬を依頼、豪胆な当時の住職(日脱)がその首を葬ったのが「相馬大作の首塚」である。その後、相馬の子息は住職の勧めにより出家して、大石寺系の末寺「感恩寺」(盛岡)を寄進している。その名の由来は「妙縁寺住職に恩を感じて造った寺」である。 そして江戸市民は秀之進の行動を賞賛し、事件は講談や小説の題材として流行した。幕末の水戸藩の尊皇攘夷論者で。藤田東湖もその義烈をたたえ、長州藩の吉田松陰も長歌を詠じて秀之進を追慕している。
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