相馬大作の首塚とは? わかりやすく解説

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相馬大作の首塚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/31 04:52 UTC 版)

妙縁寺」の記事における「相馬大作の首塚」の解説

文政4年1821年)、江戸から帰国途中弘前藩九代藩主津軽寧親狙撃未遂事件発生する首謀者盛岡藩下斗米秀之進変名相馬大作」を名乗っていたことから「相馬大作事件」と呼ばれる下斗米秀之進寛政元年1789年)、盛岡藩二戸郡福岡村二戸市)に生まれた。秀之進は、18歳江戸にて剣名高き平山行蔵道場門下生となり武道精進四傑一人呼ばれるほどに腕をあげて帰国し郷里福岡講武場兵聖閣を設けて武術教授始めた。そんな矢先文政3年1820年)、盛岡藩南部利敬39歳若さで世を去り遺領南部利用継いだ。利敬の早すぎる死は、弘前藩対す積年鬱憤原因といわれている。 その積年鬱憤とは、もともと弘前藩津軽家は、盛岡藩南部家一族家柄であったが、南部お家騒動後継者選定騒動)の際独立し豊臣秀吉小田原征伐陣中参じて、独立成功させた事に起因するのであるとされた。 この当時利用はまだ14歳無位無官、それに対して「本来家臣筋だ」と南部側は思い込んでいた津軽氏当主の寧親は従四位下侍従に叙任されていた。このことに不満を抱いた秀之進は、寧親に果たし状送って辞官隠居勧め、それが聞き入れられないときには「悔辱の怨を報じ申すべく候」と暗殺伝える。 文政4年、秀之進は江戸から帰国途中の寧親を久保田藩白沢村(のちの矢立村現・秋田県大館市 白沢駅付近)で狙撃しようと計画するが、仲間密告によって失敗、藩を出奔し江戸逃れ相馬大作」と名を変えたが、同年幕吏捕らえられ翌年首を刎ねられた。その相馬大作の子息が、晒されていた首を盗んで来て妙縁寺住職埋葬依頼豪胆な当時住職(日脱)がその首を葬ったのが「相馬大作の首塚」である。その後相馬の子息は住職勧めにより出家して大石寺系の末寺感恩寺」(盛岡)を寄進している。その名の由来は「妙縁寺住職に恩を感じて造った寺」である。 そして江戸市民は秀之進の行動賞賛し、事件講談小説題材として流行した幕末水戸藩尊皇攘夷論者で。藤田東湖もその義烈をたたえ、長州藩吉田松陰長歌詠じて秀之進を追慕している。

※この「相馬大作の首塚」の解説は、「妙縁寺」の解説の一部です。
「相馬大作の首塚」を含む「妙縁寺」の記事については、「妙縁寺」の概要を参照ください。

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