発見から死まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/09 08:58 UTC 版)
「ヨハン・ルートヴィヒ・ブルクハルト」の記事における「発見から死まで」の解説
シリア滞在中にブルクハルトはレバノンダマスカスパルミラを訪れ、この地域の一連の探検旅行を行った。今日のヨルダンにあたる地域でこうした旅行の一つから千年近く発見されていなかったペトラの大規模で珍しい遺跡の「発見」につながった。この発見の衝撃に満足できず、ニジェール川の水源を明らかにする当初の目的を遂行することにした。従って1812年にリビアのフェザーンに向かうキャラバンに加わる目的でカイロに行った。 ブルクハルトはダル・マハスまでナイル川を遡るこの目的を一時禁止され、その際西方に向かうことは不可能であることを理解し、紅海をベルベルやシェンディに沿ってスアキンに向かいながら貧しいシリアの商人に身をやつしてヌービアン砂漠を通る旅行を行い、アブ・シンベル神殿の壁の一部を発見する。そこからハッジの方法でメッカへの巡礼を行った。メッカに3か月滞在し、その後マディーナ、スエズを訪れた。 最も深刻な欠乏と苦難を耐え忍ぶと、疲労困憊の状態で1815年6月にカイロに戻ったが、1816年春にシナイ山に旅行し、そこから6月にカイロに戻り、そこで再びフェザーンに向かう準備を行った。この目的を遂行するにあたって数個の障害が立ちはだかり、遂に長らく夢だったサハラ横断のキャラバンが出発する準備をしていた1817年4月に赤痢にかかり、10月15日に死亡した。時々注意深くイングランドに日誌やメモ、手紙の写しを移していて、失われたものはごく僅かだった。800巻に及ぶ東洋の古写本の収集品をケンブリッジ大学の図書館に贈ることを遺言していた。
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