発見から原記載まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 03:31 UTC 版)
「スクトサウルス」の記事における「発見から原記載まで」の解説
最初の化石は、ロシアの北西連邦管区のアルハンゲリスク州を流れる北ドヴィナ川の上部ペルム系の堆積物中の動植物種を整理している際に、同国の古生物学者ウラジミール・アマリツキー(英語版)により公表された。アマリツキーは1899年に発掘サイトを発見し、彼と妻のアン・アマリツキーは1914年まで発掘を続け、異なる動物から構成される集団に属するほぼ完全でかつ関節した骨格を数多く発見した。第一次世界大戦のため、これらの標本の記載は遅れることとなった。1917年にイギリスの動物学者デービッド・M・S・ワトソンは肩甲烏口骨の復元にキャプションを付け、パリアサウルス・カルピンスキィ(Pariasaurus Karpinskyi)と命名した。この記載はPIN 2005/1535 に基づくものだった。その年の下旬にアマリツキーは死去し、死後(1922年)に発表された実際の学名はパレイオサウルス・カルピンスキィ("Pareiosaurus" karpinskii)となり、ホロタイプ標本はより完全な骨格 PIN 2005/1532 とされた。3つの部分的な頭骨も発見されていたが、アマリツキーはこれら3標本を新種 "P. elegans"、"P. tuberculatus"、"P. horridus" に分類することを決めていた。
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