発病による静養
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/06 09:20 UTC 版)
威仁親王は生来体が弱く、軍務も度々休職して静養するなどしていたが、栽仁王の薨去後は肺結核を患った。1909年(明治42年)9月に兵庫県神戸市垂水区にあった有栖川宮舞子別邸で静養を行うこととなり、同月18日に東京を発ち、横浜から海路で神戸へ向かい、さらに鉄道で現地に到着した。 1910年(明治43年)の「皇族身位令」制定に際し、皇族会議は2月18日に議案を明治天皇に奏上したが、天皇は会議にやむを得ず不参加だった東伏見宮依仁親王、梨本宮守正王、(久邇宮家の)多嘉王、そして威仁親王に意見を徴するよう指示した。威仁親王のみ、複数の疑義を生じたため奥田義人らが舞子別邸に参上して説明を行い、皇族の班位に関する規定について天覧することとなった。威仁親王の意見は入れられなかったが、上聞に達したことで納得し、同令は原案通り3月3日に裁可、公布された。 1911年(明治44年)4月4日、皇太子嘉仁親王が佐世保より帰京する途上、舞子別邸に行啓し、威仁親王を見舞った。 翌1912年(明治45年)4月12日、実枝子・慶久夫妻が舞子別邸を訪問し、18日まで滞在した。このとき孫娘喜久子を伴っており、気分も塞ぎがちだった威仁親王が「喜久女、喜久女」と呼んで笑顔を見せ、喜久子も祖父に懐いた。夫妻は威仁親王から孫娘を引き離すことが忍びなく、また慰子妃の助言もあって、喜久子を舞子別邸に残して帰京した。 同年の明治天皇崩御に際しては、帰京できる体調になかったため、諸儀式に平山成信別当を派遣した。また明治天皇の冥福を祈るため、紺紙に金泥で法華経普門品を、絹本に同寿量品を書写した。
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