発病、薨去
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 04:14 UTC 版)
1953年(昭和28年)に秩父宮雍仁親王が肺結核で危篤となった際、長兄・昭和天皇は弟宮の最期に一目会うことを願ったが叶わなかった。これを昭和天皇は大変悔やんだといわれ、1986年(昭和61年)に宣仁親王が末期の肺癌に侵されたときは、昭和天皇は3度にわたって親ら親王のもとへ渡御し、見舞っている。宣仁親王自身には、病名は「老人性結核」と伝えられていた。 天皇が弟宮を見舞った最後は、1987年(昭和62年)2月3日、宣仁親王薨去の当日で、須崎御用邸での静養を中止してのことだった。昭和天皇が病室に着御した時すでに親王の意識はなかったが、宣仁親王妃喜久子の願いもあり、天皇は手を握った。昭和天皇と今生の別れを行った約1時間後の13時10分、宣仁親王は肺癌のため東京・広尾の日本赤十字社医療センターで薨去。享年82。 雍仁親王以来、34年ぶりに皇族の弔事となったため、宮内庁は斂葬の儀の運営方法を相当模索したとされる。2月10日、豊島岡墓地に葬られた。 没後、戦時中を含み27年20冊に渡って書き連ねられた『高松宮日記』が、大井篤に国宝級の資料と評され、喜久子妃の尽力により、宮内庁の反対を押し切る形で刊行された。
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