発病と薨去
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 09:20 UTC 版)
母后自ら母乳を与え、順調に発育しており、1928年(昭和3年)3月3日には初節句を、特に諒闇あけという状況もあり盛大に祝う予定であった。天皇・皇后は30種のひな菓子を用意し、香淳皇后の実家:久邇宮家からは内裏びな、その他に宮妃となった明治天皇皇女たちからも贈り物が用意された。 しかし2月27日に、湿疹と高熱が生じ、咽喉カタルと診断された。初節句の祝いは延期され、皇后・侍医らが付きっきりで看病した。発病が公表された3月1日時点では医師らは「ご心配申し上げるほどではない」との認識であり、3月3日に熱が下がった際も、数日中に全快するという見通しだった。 ところが、3月4日再び熱が39度台まで上昇、午後9時には重態となり敗血症の疑いが濃厚となった。皇后は女官共々徹夜で看病にあたるようになる。なお同時期に天皇も発熱したが、これは風邪によるものだった。3月6日の地久節(皇后誕生日)の行事も中止され、深夜までに熱海滞在中の久邇宮夫妻にも帰京が要請された。 3月7日午後8時40分頃容態が悪化し、翌3月8日午前3時38分、薨去。その後、演芸放送や陸軍記念日行事などが自粛された。皇室喪儀令の規定は、同17条により7歳未満の久宮には適用されず、3月13日に簡素な葬儀が行われた後、豊島岡墓地に埋葬された。 香淳皇后は悲しみから、その後しばらく久宮と同じ重さの人形を抱いたという。
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