発掘と保護の歴史
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1898年(明治31年)に地元住民らによって主墳の瓦塚古墳の発掘調査が行われた。その成果は、翌1899年(明治32年)に八木奘三郎が「下野国河内郡長岡の古墳」の題で『東京人類学会雑誌第155号』に発表し、学界に広く伝えられた。 1973年(昭和48年)から1975年(昭和50年)にかけて、長岡ニュータウン開発が企図されたことから、25号・26号・32号墳が発掘され、凝灰岩の横穴式石室や直刀、刀子、金具などの出土があった。 1991年(平成3年)と1992年(平成4年)に作新学院高等部(現・作新学院高等学校)社会研究部が瓦塚古墳の墳丘の測量調査を行い、墳丘が2段築成であることや葺石の存在を発見し、円筒埴輪列の位置も特定した。この調査の時点で、盗掘を受けたような攪乱が見られ、玄室の一部が露出していた。 そして宇都宮市は1995年(平成7年)に瓦塚古墳を史跡に指定した。史跡指定を受けて、地域住民は1997年(平成9年)に瓦塚古墳群愛護会を結成し、古墳の保護継承運動を開始した。当初は清掃活動が中心であったが、その活動規模は年々拡大し、中学生も参加して、案内板の設置や遊歩道の整備などに及んだ。地域活動に呼応して、宇都宮市としても将来の公園化を見据えた発掘調査を行うことを決め、2001年(平成13年)から2003年(平成15年)にかけて発掘調査を実施した。この発掘は整備のための確認調査との位置付けだったため、出土した埴輪等は元の位置に埋め戻された。
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