病、死、死因
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 06:56 UTC 版)
ティコはプラハでの宴席に出席した後、突如膀胱または腎臓の病気を患い、その8日後の1601年10月24日に死亡した。享年54歳であった。ケプラーの目撃証言によれば、ティコは礼を失すること避けるため、その宴会を途中退席して安静にすることを拒否した。帰宅した時には彼は排尿障害に陥っており、僅かな量の排尿しかできず、しかもそれは激痛を伴った。彼が死亡した夜、ティコは精神錯乱(delirium)に苦しみ、ケプラーは頻繁に、「無駄な人生を送ったと思われないことを望む」というティコの叫び声を聞いている。死の前、ティコはケプラーに『ルドルフ表』の完成を託し、コペルニクスではなく自らの惑星系モデルを採用することを望むと伝えた。ティコは「賢者のように生き、愚者のように死んだ」という自身の墓碑銘を書き残したと伝えられている。当時の医師はティコの死因を腎臓結石に求めたが、1901年に彼の遺体を掘り起こして行われた解剖の結果、腎臓結石は見つからなかった。20世紀の医学的知見では、彼の死は恐らく尿毒症の結果であろうとされている。 1990年代の調査はティコの死因が排尿の問題ではなく、水銀中毒によるものである可能性を示唆した。これは彼が毒殺された可能性を推測させた。主要な二人の容疑者のうち1人は彼の助手であったヨハネス・ケプラーで、動機はティコの研究室と薬品類を自身の管理下に置くことであるとされた。もう1人の容疑者は、友人から敵となった(friend-turned-enemy[訳語疑問点])クリスチャン4世の命令によって毒殺を実行したとされたティコのいとこ、イーレク・ブラーエ(Erik Brahe)である。クリスチャン4世はティコが彼の母親と不倫関係にあったという噂のために殺害を命じたという。 2010年2月、プラハ市当局はティコの遺体を掘り返すというデンマークの科学者たちの要請を承認し、10月にチェコとデンマークのオーフス大学の科学者グループたちは遺骨・髪の毛・衣服のサンプルを調査のために回収した.。彼らはイェンス・ヴェラフ(Jens Vellev)博士の指揮により、ティコの髭の毛を再調査した。2012年10月、調査チームは毒殺を実証するのに十分な量の水銀が検出されなかっただけでなく、致死量に達する他の種類の毒物も存在しなかったことを報告した。調査チームは「ティコ・ブラーエが毒殺されたと想定することは不可能」と結論付けた。この結論は1901年のロストック大学の科学者たちによるティコ・ブラーエの髭のサンプル調査を追認した。水銀の痕跡も発見されているが、これは外部(outer scale[訳語疑問点])からしか発見されなかった。従って水銀中毒がティコの死因である可能性は除外された。この研究では、水銀の蓄積は恐らく「(ブラーエの)長期にわたる錬金術的活動の中で水銀を含んだ塵が蓄積したもの」から来ている可能性が示唆されている。髪の毛のサンプルには彼の死の2ヶ月前までに、自然値の20-100倍の金が含まれていた。 ティコは旧市街広場、プラハの天文時計そばにあるティーン教会に埋葬された。
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