番組誕生の経緯〜黛担当時代
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「題名のない音楽会」の記事における「番組誕生の経緯〜黛担当時代」の解説
1964年8月1日、当時の東京放送(現・TBSホールディングス)との専属契約を打ち切られて苦境に陥っていた東京交響楽団の活動の場を与える意味で、土曜 20:30 - 21:00に日本科学技術振興財団テレビ事業本部(以下東京12チャンネル、現・テレビ東京)の制作で『ゴールデン・ポップス・コンサート 題名のない音楽会』として始まった。当初の司会は作曲家の黛敏郎で、日ごろ余り聞きなれないクラシック音楽を家族で楽しんでもらえるようにとの趣旨でスタートした。東京12チャンネルの開局から4ヶ月後のことだった。第1回のゲストは歌手の松尾和子。 この『題名のない音楽会』というネーミングは、黛が考案した『題名のないコンサート』という題名を放送作家が改題したもので、これに東京12チャンネルの編成課長・ばばこういちが「どうしても題名に『ゴールデン』という文字を入れて欲しい」と要求し上記の題名に落ち着いた。黛敏郎は著書『題名のない音楽会』(1977年、角川文庫)で、番組タイトルについてみなアイデアが浮かばなくなり、半ば投げやりな調子で言ったものが採用されたと明かしている。 番組開始に先立ち、スポンサードを行うかどうかの判断材料にするために出光興産の社内でパイロット版を放送し社員にアンケートを取ったが、賛成はわずか17%ほどに過ぎなかったという。しかし出光興産としては初の番組提供であり、同族経営の出光興産としては番組に強いこだわりを持っていた。 その後、東京12チャンネルの経営難による放送時間短縮(1966年4月より。詳しくはテレビ東京#開局から商号変更まで (東京12チャンネル)を参照)の影響で放送継続が困難になり、スタッフは「司会者・楽団・スタッフはそのままで番組を継続できること」を条件に他局への番組の移籍を検討する。元々、出光興産は「会社がつぶれるまで提供を継続する」方針であり、「優良スポンサーつきの番組であり、ぜひ放送したい」と他の在京キー局が一斉に手を挙げたが、最終的にNET・日本教育テレビ(現・テレビ朝日)が当時専属の交響楽団を持たなかった事が決め手となり、1966年4月1日に放送がNETに移り『題名のない音楽会』として再スタート。NETテレビで放送された最初の2本分は、東京12チャンネルが制作したものである。 アニメ番組を除く放送番組が他の放送局に移籍するのは、現在ではもちろん当時としても異例のことである。 その後、本番組は1968年9月29日放送分で一旦終了し、1968年10月6日から1969年6月29日までは同時間帯にて『黛敏郎の間奏曲』が放送された。1969年7月6日放送分より再び放送を開始し、以降は週末のNETテレビ⇒テレビ朝日で特番や緊急時を除き、間断なく放送を続けている。 黛の司会担当時は主に現代音楽を取り扱い、ポップスや軽音楽が披露されるのは稀だった。また後述のように様々な企画が実施された一方で、黛の政治思想が色濃く反映され、お蔵入りになるケースもあった。
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