番組誕生の経緯〜黛担当時代とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 番組誕生の経緯〜黛担当時代の意味・解説 

番組誕生の経緯〜黛担当時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 00:33 UTC 版)

題名のない音楽会」の記事における「番組誕生の経緯〜黛担当時代」の解説

1964年8月1日当時東京放送(現・TBSホールディングス)との専属契約打ち切られ苦境に陥っていた東京交響楽団活動の場与える意味で、土曜 20:30 - 21:00日本科学技術振興財団テレビ事業本部(以下東12チャンネル、現・テレビ東京)の制作で『ゴールデン・ポップス・コンサート 題名のない音楽会』として始まった当初司会作曲家黛敏郎で、日ごろ余り聞きなれないクラシック音楽家族楽しんでもらえるようにとの趣旨スタートした東京12チャンネル開局から4ヶ月後のことだった。第1回ゲスト歌手松尾和子。 この『題名のない音楽会』というネーミングは、黛が考案した題名のないコンサート』という題名放送作家改題したもので、これに東京12チャンネル編成課長ばばこういちが「どうしても題名に『ゴールデン』という文字入れて欲しい」と要求し上記題名落ち着いた黛敏郎著書題名のない音楽会』(1977年角川文庫)で、番組タイトルについてみなアイデアが浮かばなくなり半ば投げやり調子言ったものが採用されたと明かしている。 番組開始先立ちスポンサードを行うかどうか判断材料にするために出光興産社内パイロット版放送し社員アンケート取ったが、賛成はわずか17%ほどに過ぎなかったという。しかし出光興産としては初の番組提供であり、同族経営出光興産としては番組に強いこだわり持っていた。 その後東京12チャンネル経営難による放送時間短縮1966年4月より。詳しくテレビ東京#開局から商号変更まで (東京12チャンネル)を参照)の影響放送継続困難になり、スタッフは「司会者楽団スタッフそのまま番組継続できること」を条件他局への番組移籍検討する。元々、出光興産は「会社がつぶれるまで提供を継続する方針であり、「優良スポンサーつきの番組であり、ぜひ放送したい」と他の在京キー局一斉に手を挙げたが、最終的にNET日本教育テレビ(現・テレビ朝日)が当時専属交響楽団を持たなかった事が決め手となり、1966年4月1日放送NET移り題名のない音楽会』として再スタートNETテレビ放送され最初の2本分は、東京12チャンネル制作したのであるアニメ番組を除く放送番組が他の放送局移籍するのは、現在ではもちろん当時としても異例のことである。 その後本番組は1968年9月29日放送分で一旦終了し1968年10月6日から1969年6月29日までは同時間帯にて『黛敏郎間奏曲』が放送された。1969年7月6日放送分より再び放送開始し以降週末NETテレビテレビ朝日特番緊急時除き間断なく放送続けている。 黛の司会担当時は主に現代音楽取り扱いポップス軽音楽披露されるのは稀だった。また後述のように様々な企画実施され一方で、黛の政治思想色濃く反映されお蔵入りになるケースもあった。

※この「番組誕生の経緯〜黛担当時代」の解説は、「題名のない音楽会」の解説の一部です。
「番組誕生の経緯〜黛担当時代」を含む「題名のない音楽会」の記事については、「題名のない音楽会」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「番組誕生の経緯〜黛担当時代」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「番組誕生の経緯〜黛担当時代」の関連用語

番組誕生の経緯〜黛担当時代のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



番組誕生の経緯〜黛担当時代のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの題名のない音楽会 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS