留学生の来日と受け入れ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 00:59 UTC 版)
「南方特別留学生」の記事における「留学生の来日と受け入れ」の解説
1942年初頭から半ばにかけて開始された日本軍政のもと、東南アジアの各占領地では日本語教育が実施された。このような状況の中で日本への留学生が募集され、試験により選抜された候補生たちは、来日に先立って各軍政当局により軍隊式訓練を受けた(インドネシア(オランダ領東インド)の場合、軍政開始にともない3大学すべてが閉鎖されたため、日本留学は高校卒業後の教育を受けられる唯一の機会であった)。 そして第1期生は1943年5月、第2期生は1944年4月頃に来日した(第2期生の来日時、既に日本軍は制空権・制海権を奪われていたため、日本渡航は非常な危険をともなっていた)。彼らは最初の1年間、東京の目黒にあった国際学友会(大東亜省管轄)の日本語学校で語学研究を受け、2年目(第1期生は1944年4月、第2期生は1945年4月から)は指定された専門学校・高等師範学校で大学入学のための予備教育を受けた。留学生の受け入れ校は彼らの出身地を考慮して九州・中国地方など気候温暖な地域の学校(第1期生の場合、最初の受け入れ先で特に多かったのは宮崎高農(現・宮崎大・農)の10名、久留米高工(九大・工)の18名、熊本医大附属専門学校(熊本大・医)の8名、最多が広島高師(広島大・教)の20名で、警察官志望者の場合は横浜警察練習所など)が割り当てられ、私学では明治大学が唯一の受け入れ校となった。留学生はこれらの受け入れ校で日本人学生と区別された特別コースで勉学に励んだ。3年目(第1期生は1945年4月以降)になると留学生は京都帝大・広島文理大(広島大)・陸軍士官学校などに入学した。 留学生は当時の金額で月額100円~120円の奨学金を支給されており、経済的にはあまり困窮していなかった(しかし物資難により食糧の確保には苦労したという)ものの、起床から消灯に至るまで厳格な時間割を順守することが求められ、外出にも許可を要したため一般市民と交流を深める機会はほとんどなかった。また(戦前から滞日していた)一般の東南アジア出身留学生との交流も厳しく制限されていた。
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