由来と背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 23:53 UTC 版)
武田勝頼の死による甲州征伐の折、武田氏の隠し金山と言われたこの黒川金山も閉山となった。この時、金山の秘密が漏れることを危惧した金山奉行・依田の主導で、鉱山労働者の相手をするため遊廓にいた55人の遊女と金山に従事した配下の武士を皆殺しにすることを決め、酒宴の興にと称して柳沢川の上に藤蔓で吊った宴台の上で彼女らを舞わせ、舞っている間に蔓を切って宴台もろとも淵に沈めて殺害した。 この伝説にはもう一説あり、原全教著(山小屋四十号)には、「足手まといの坊主と遊女のうち、遊女は藤尾橋の少し下流の淵へ叩き込んだ。今そこを五十五人淵という。(割愛)坊さんは全部で十二人、これは今坊主淵の称のある深淵へ叩き込んだ」とあり、遊女のほかに坊主も殺害されたと書いている。 比留間とくえ著「民間の伝承 おいらん淵 武田勝頼戦国動乱の蔭に」では、「実際に事があったのは落合に近い藤尾橋の付近である事は、郷土史家たちの一致した意見である。」と記してあり、泉昌彦著「伝説と怪談シリーズ第1集」にも「藤尾橋下のカーブのところである。」と記される。 今の花魁淵にある立正佼成会の支部が建立した慰霊碑は、東京都水源林に勤めていた中川金治が、伝説にふさわしい場所ということで移し替えたものである(一説には青梅街道の傍らに慰霊碑があって、通行の妨げにことから移し替えたとされる)。 今の花魁淵は、明治十年に東京市水道局の中川金次郎(一説には東京市助役田島勝太郎)が水源地を作るため最初にこの土地を訪れた時この淵を見て「ああいい淵だな、まるでおいらんがきれいにお化粧して夜店の前に出たようだな。」と形容したことから語り継がれているとされている。 下流の丹波山村には、この際の遊女たちの遺体を引き上げて供養したとされる小祠が明治四十年まであり、小祠の中にはやり手婆を中にして両側に五十五人のおいらんが居並ぶ木像があったが水害で長らく失われ、1988年(昭和63年)に再建されている(西東京バス丹波バス停下車、徒歩15分)。
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