生産・運用実績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/08/07 19:57 UTC 版)
最初のSTは1934年6月8日に初飛行を行っている。翌年から生産が始まり、9機が納入された。46機が生産された1937年を除く数年間の生産率は低く、2週間に1機程度の割合であった。この状況が変わるのは軍事需要が高まった1940年に入ってからである。同年の生産は1週間に3機にまでペースアップした。アメリカが第二次世界大戦に参戦するまでに生産されたSTの派生型は315機であるが、総生産数1,568機のうち1,253機は戦時下の1942年から1943年にかけて製造されており、いずれも軍用であった。 民間向けSTは主にアメリカ国内で販売されたが、ごく少数が南アフリカ、オーストラリア、南アメリカ諸国へと輸出されている。 1939年にUSAACが1機のST-Aを評価試験用に購入し、XPT-16の制式番号を与えた。続いてYPT-16として15機が納入されたが、これは陸軍航空隊初の単葉練習機の発注であった。これらが先鞭となり、USAACとその後身であるアメリカ陸軍航空軍 (USAAF) およびUSNにおいて1000機以上のST派生型が使用されることになる。 アメリカが第二次世界大戦に参加する以前の1930年代から1940年代初頭にかけ、少なくない数のSTMが様々な国の軍隊に向けて輸出された。最多納入先はオランダ領東インドであった。1940年と1941年初頭に同植民地の陸・海軍は84機のSTM-2と24機のSTM-S2を受領している。また、計50機のSTM-2EとSTM-2Pが中華民国に、その他の機体がボリビア、エクアドル、グアテマラ、ホンジュラス、メキシコ、ニカラグアへ輸出された。 日本軍のオランダ領東インド侵攻後、オランダ軍の多数のST派生型が実戦参加を余儀なくされ主に偵察任務に従事したが、多くは撃墜されるか地上で破壊されてしまった。ジャワ島のカリジャジ飛行場では2機のPT-20が日本軍に鹵獲され、調査を受けている。日本軍に鹵獲されずオーストラリアへ逃げることができたSTM-2とSTM-S2のうち34機はオーストラリア空軍の練習機として働いた。大戦後まで残存した機体の多くはオーストラリアや別の地域で民間機として登録され、その一部は製造から70年を経た現在もなお飛び続けている。
※この「生産・運用実績」の解説は、「ライアン ST」の解説の一部です。
「生産・運用実績」を含む「ライアン ST」の記事については、「ライアン ST」の概要を参照ください。
- 生産・運用実績のページへのリンク