現地司令官の対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 21:32 UTC 版)
「ノルマンディー上陸作戦」の記事における「現地司令官の対立」の解説
1943年3月に西方総軍司令官に任命されたルントシュテットは、『大西洋の壁(Atlantic Wall)』などと喧伝されている陣地の構築状況が遅々として進んでいないことに頭を悩ませていた。上陸が予想されていたカレー方面ですら工事の進捗具合は80%、ノルマンディー地方に至っては20%と言う悲惨な状況でありとても難攻不落とは言い難く、これに頼らない作戦を検討する必要に迫られた。そこで機甲部隊の運用の専門家でもあったルントシュテットは陣地に頼るのではなく、装甲部隊に重点を置くこととした。しかし、最前線地区に配備してしまえば、上陸前の連合軍の圧倒的な航空攻撃と艦砲射撃で連合軍部隊が上陸前に大損害を被る懸念が大きかったため、ルントシュテットは装甲部隊をその射程の外に配置し、海岸陣地の歩兵が上陸部隊が押しとどめている間に、装甲部隊が海岸付近に駆けつけて、艦砲の射程外でまだ体制が整わない上陸部隊を一気に叩く作戦を考えた。これは、ルントシュテットがハスキー作戦やアヴァランチ作戦で、連合軍の圧倒的な艦砲射撃に大損害を被った戦訓に基づくものであり、ドイツ国防軍きってのアメリカ・イギリス通と言われたシュヴェッペンブルクも賛同した。 一方でロンメルも『太平洋の壁』の看板倒れは認識しつつも、北アフリカでの経験から、連合軍の侵攻を防ぐ方法はただ一つ「敵がまだ海の中にいて、泥の中でもがきながら、陸に達しようとしているとき」「上陸作戦の最初の24時間は決定的なものになるだろう、この日のいかんによってドイツの運命は決する。この日こそは、連合軍にとっても、我々にとっても『いちばん長い日』になるだろう」、として「水際配置・水際撃滅」を主張した。これはロンメルが連合軍の圧倒的な航空戦力で叩かれた苦い経験に基づくもので、連合軍空軍の制空権下では、装甲部隊が戦線にたどり着くためには小部隊に分散し、また時間をかける必要があって反撃の機を逸してしまうため、海岸付近に歩兵、砲兵、装甲部隊全ての兵力を配置すべきと考えたからである。しかし、ロンメルは連合軍の艦砲射撃を経験しておらず、明らかにその威力を軽視していた。 ロンメルとルントシュテットの意見の相違は、やがてドイツ軍を二分するような「装甲部隊論争」に拡大した。ヒトラーはドイツ軍の大方の見方とは異なって、自分の“カン”を頼りにノルマンディに連合軍が上陸してくる可能性が高いと考えるようになっており、ロンメルの意見に近づくようになっていた。そこで、陸軍参謀総長のハインツ・グデーリアン上級大将は、ロンメル案の危険さを説明するため3回もヒトラーに面会した。ヒトラーもノルマンディへの上陸の可能性が高いと思いながらも、第二弾に本番の上陸作戦があるのではないかと考えるようになり、結果的に破滅的な妥協案を採用することとなってしまった。その妥協案とは、フランス北部で運用可能な機甲師団6個のうち、3個をロンメルに与えるが、残りの3個は海岸から離れた位置に温存配備し、ヒトラー直接の承認無しでは運用出来ないとする事で、戦術の方向性を両者の折衷案のような形となった。結局のところ、ロンメルとルントシュテットは自分たちの対立によって余計な手枷足枷を付けることとなってしまった。
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