特殊部隊へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 04:09 UTC 版)
「オットー・スコルツェニー」の記事における「特殊部隊へ」の解説
数ヶ月して、スコルツェニーは親衛隊作戦本部に出頭するよう報告を受け「技術的訓練を受けた将校」で「特殊任務を達成できる」人材が必要であると司令部から説明された。スコルツェニーはじっと聞き耳をたて、補給所での退屈な任務から抜け出る機会だろうとみていた。司令部は、ドイツにもイギリスのようなコマンド部隊を設置する時が来たと説明しスコルツェニーはすすんでこれを受け入れ、1943年4月18日に予備役大尉へ昇進し『フリーデンタール特殊任務特別教育課程(ドイツ語:Sonderlehrgang zbV Friedenthal)』の隊長に就任する。部隊はベルリン近郊の「フリーデンタール訓練場」に因んで『SSフリーデンタール駆逐戦隊(ドイツ語:SS-Jagdverband Friedenthal)』とも通称された。 1943年の春、スコルツェニーは特殊部隊としての編成にあたったが部隊の兵力は1個中隊ほどであり、与えられた武器もほとんどが敵からの鹵獲品であった。これらは当時の特殊部隊の水準を満たすものではなかった。しかし、ニーチェの「危険を冒して生きよ」という言葉を座右の銘としていたスコルツェニーは、任務を断念する事なく部隊の強化に奔走するようになる。SDの幹部でスコルツェニーの事実上の上司であったヴァルター・シェレンベルクはこの新部隊の将来性をヒトラーに良く印象づけようとしており、スコルツェニーは作戦に必要な人材をすぐに集め始めた。まず、手始めに呼んだのは大学以来の旧友であった陸軍大尉のカール・ラドルであった。ラドルはその後の数年間、スコルツェニーの副官として活躍することになる人物であった。兵員は様々な組織から集めSSの空挺大隊が大半を占めたほか、アプヴェーアのブランデンブルク大隊からも兵員を獲得した。また、通常の武装親衛隊員から志願した者も何人かいた。最終的に部隊は2個大隊に匹敵する規模に拡大されたが、彼らの国籍はバラバラでヨーロッパの各言語が部隊内で交わされることになり、これらは後の作戦行動で有効にはたらくこととなる。 しかし、スコルツェニーはまだ満足せず、部隊の武装が貧弱なままであることを問題視して再び奔走することになる。スコルツェニーはコマンド部隊と対独レジスタンス関連の文書を辞書の助けをうけて読み耽り、英軍の方式を参考にするようになる。その後、スコルツェニーはオランダへ向かいSDなどの諜報機関によって手なずけられた二重スパイを雇って、イギリスからオランダの対独抵抗組織に送られていた武器などの軍事物資を手に入れていった。運び込まれたものはプラスチック爆弾、地雷、ステン短機関銃、無電装置、消音装置付きの短機関銃などであった。こうして、スコルツェニーの部隊は拡充され、司令部のあるフリーデンタールの狩猟用山荘で訓練が行われた。部隊は急速に強化されていたので志願者が次々に集まったが、特にブランデンブルク大隊からの志願者が多くなっていた。
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