物理と数学の権威に師事
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/26 14:20 UTC 版)
大阪の資産家の3人姉妹の長女として育ち、高女進学者が5%未満の時代(1915年)に、裕福な船場の商家の令嬢が通う名門の清水谷高女に進学。卒業後、婿を迎え森本家を継がせようとする父を説得して、東京女高師に進学した。 高等教育機関に進む女性は1%に満たなかった時代に、東京女高師の理科物理専科生として、理論物理学者で東京帝国大学教授の佐野静雄や、東北帝国大学理科大学(理学部)教授の愛知敬一ら物理学の最高権威に師事した。また、ギリシャ語やラテン語など得意の語学を生かし1922年(大正11年)理論物理学者アルベルト・アインシュタイン来日時、仙台市公会堂で開催の講演会でドイツ語の通訳も務めた。 ますます物理学への思いは募り、1924年21歳で東北帝大の理学部数学科に入学。日本の数学界を代表する数学者の藤原松三郎や、主任教授の林鶴一に師事した。 なお、入学先が数学科となったのは、物理科の女子志願者が森本治枝の他におらず、入試で二人一組で行う暗室実験が男女ペアとなる点を大学側が問題視したため。東北帝大は、日本の大学で初めて女子の入学を許可(1913年)していたにもかかわらず、森本治枝に受験直前に数学科へ変更するよう説得していた。 男子と同じ入試で難関を突破したにもかかわらず、女子というだけで風当りの強い時代で、森本治枝は男子学生からノートを借りただけで怒られた上、助手(深澤清吾)から交際を申し込まれたという理由だけで指導教官の林鶴一の激怒をかうなど、女性数学者への道は苦労の連続だった。
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