版本について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 09:42 UTC 版)
事実上最初の刻本とされるのは、蒲松齢没後51年の1766年(乾隆31年)に趙起杲(ちょうきこう、1718?-1766)、飽廷博(ほうていはく、1728-1814年)らによって刊行された『青柯亭刻本』である。趙起杲は鄭方坤(ていほうこん、中国語版)が蒲松齢の出身地に近い山東兗州の知府だったという経歴から抄本を持っているのではと考え鄭方坤の息子を訪ねたところ写本全巻があった。息子が保有していた写本16巻から正副2抄本を作り、他の抄本と校合し鄭写本が原稿本であることを確認した。その後筆写のための借覧依頼に応じきれなくなり、また友人の飽廷博からも勧められ1763年に刊行を決意するが、1766年全12巻を刊行したところで趙起杲は急死した。残りの4巻の刊行を趙起杲の弟から依頼された飽廷博が、趙起杲没後7か月を経て全16巻の刊刻を完成させた。 作者手稿本の発見以来、蒲松齢のまとめた原稿の探求が行われてきたが、その成果として1962年に張友鶴輯校『聊齋誌異 會校會注會評本』が刊行された。これは手稿本と鋳雪斎抄本を基本として可能な限り著者の意図を復元すべく、各抄本・刊本で校訂したもので全12巻503篇を収録し、張友鶴による後記に各対校本についての詳しい情報が掲載されている。 任篤行が2000年に蒲松齢手稿本、康熙抄本を基本に諸本で校訂した、輯校『聊齋志異:全校會註集評』が齊魯書社(中国語版)から刊行された。さらに2016年には修訂版が人民文学出版社から刊行されている。
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