父の商業帝国におけるエージェント
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/12 08:52 UTC 版)
「ジョナサン・ベルチャー」の記事における「父の商業帝国におけるエージェント」の解説
ベルチャーは17歳でハーバードを卒業し、父の事業に入った。父が築いたその商業帝国は西インド諸島からヨーロッパに至る貿易であり、15隻以上の商船の部分所有あるいは全所有者だった。1704年春、父がベルチャーをロンドンに送り、自分で事業上の繋がりを開拓させ、また軍需物資の契約を取らせた。ロンドンでは父の紹介状に基づいて事業のつながりを築いた後、オランダにも行ってオランダ商人と同様なつながりを作り、さらに西ヨーロッパを旅した。ロッテルダムやアムステルダムを見学した後にハノーファーに行き、選帝侯夫人ゾフィー・フォン・デア・プファルツの歓待を受け、その子で後のイギリス王ハノーファー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒと出逢った。ベルリンのプロイセン王国を訪問した後、ニューイングランドに戻った。この旅行の間、様々な宗教的慣習を見聞きしたが、カルヴァン主義寄りのニューイングランド会衆派教会に最も近いキリスト教礼拝にいつも慰みを見い出した。最後は自らその信仰習慣の庇護者となり、その政治的生活を通じて続いた。 スペイン継承戦争の間(北アメリカではアン女王戦争とも呼ばれた、1702年-1713年)、ベルチャーの父は植民地民兵隊への主要な供給者としての地位を守り、植民地の兵站総監を務めた。ベルチャーは一家の交易活動の管理に携わった。1708年、再度ロンドンに旅し、海軍本部との大きな契約を取った。マサチューセッツに戻る前にもう一度ハノーファーに旅し、宮廷で歓待された。戦争遂行のためにマサチューセッツでは経済の動揺が起こり、軍隊のために穀物など物資を買い溜めしたベルチャーは、戦争の後半で食料不足が起こったときに民衆の不満を買った。一族の倉庫は暴徒の標的とされ、ベルチャーは暴漢に殴られたこともあった。
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