烏宝軽便鉄道とは? わかりやすく解説

烏宝軽便鉄道

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 16:23 UTC 版)

烏山線」の記事における「烏宝軽便鉄道」の解説

1911年明治44年3月15日烏山町島崎善平らは「烏山宝積寺軽便鉄道敷設請願書」を鉄道院総裁後藤新平提出同年8月21日には「軽便鉄道敷設付き請願」が鉄道院の新総裁となった原敬提出されるなど、烏山宝積寺を結ぶ軽便鉄道敷設願い再三政府提出された。この「軽便鉄道敷設付き請願」は単に烏山宝積寺を結ぶ支線としての計画ではなく常野を横断し常磐線東北本線を結ぶ路線計画であったことから、衆議院議員江原節らが議会審議し遂に1912年明治45年2月28日宝積寺駅から烏山に至る軽便鉄道議会可決された。地元では烏宝軽便鉄道の期成同盟会が立ち上げられたが、日露戦争以来政府資金不足から国の建設認可下りず、第一次世界大戦にともなう景気亢進で国の手でようやく建設されることになり、1921年大正10年1月10日工事落札した坂本佐吉によって宝積寺 - 文狭間建設工事着手された。烏山側では依然として工事が始まらなかったため地元住民再三懇願上京しようとしていた矢先鉄道省技師等が烏山訪れ、ようやく工事開始されることとなったこうした紆余曲折経て1923年大正12年)にようやく開通地元では新聞銀行旅館などが烏宝線(うほうせん)と表示する時刻表作り報道したが、鉄道省関係の資料では建設時から「烏山線」とされ、営業開始時の正式路線名も「烏山線」とされて現在に至っている。開通日鉄道省告示により1923年大正12年4月15日とされたが、実際に北白川宮成久王薨去したため開通式は5月1日変更された。開通式には各界名士参列したほか、地元住民大勢参加してたいへん賑わい当日烏山駅利用者午後3時までに乗降者2千7百人超えた

※この「烏宝軽便鉄道」の解説は、「烏山線」の解説の一部です。
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