炎上とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 11:48 UTC 版)
川原寺は建久2年(1191年)に焼失したことが九条兼実の日記『玉葉』の記載から分かる。また、これ以前にも延久4年(1070年)の「近江国弘福寺領荘園注進」という史料に、荘園にかかわる文書が弘福寺(川原寺)の火災で焼けてしまった旨の記載があることから、複数回に渡って焼失したことが推測される。鎌倉時代にはいったん再興されるが、かつての勢いを取り戻すことはなく、室町時代末期に雷火で再び焼失して以降、再建されることなく廃寺となったものと思われる。その後、江戸時代中期に中金堂跡に弘福寺が建立され、現在に至っている。 1974年(昭和49年)、川原寺の裏山の板蓋神社から、千数百点におよぶ塑像の断片や塼仏が発掘された。塼とは土製品を焼いたもので、材質的には煉瓦に近い。川原寺裏山からは、縦横とも20cmほどの板状の塼に三尊仏を浮き彫りにした三尊塼仏が大量に発掘されている。塼仏が1箇所から大量に発掘された事例は日本で他になく、その用途ははっきり解明されていないが、仏堂の壁面を塼仏で埋め尽して荘厳していたという説が有力である。 現在、川原寺跡は南大門、中門、廻廊などの旧位置がわかるように整備されている。現在の弘福寺は、重要文化財の木造持国天・多聞天立像(平安時代前期)を安置する。
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