温泉の「発見」と初期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/15 16:10 UTC 版)
「ホットスプリングス (アーカンソー州)」の記事における「温泉の「発見」と初期」の解説
この地にヨーロッパ人が足を踏み入れたはるか以前から、この地には複数のネイティブ・アメリカンの部族が集い、湧き出る温泉を利用して体を癒していた。 1541年9月半ばから10月半ばにかけて、スペイン人探検家エルナンド・デ・ソトとその一行はウォシタ川のほとりのこの地にあった、タニコ(Tanico)と呼ばれていたトゥーニカ族の村に1ヶ月ほど逗留していた。その最中、ソトの一行の馬が村の近くに湧き出ていた温泉水を飲んでいたと記録されている。これが、今日ホットスプリングスと呼ばれているこの地における、ヨーロッパ人による最初の温泉発見であった。 そのおよそ130年後、1673年には、フランス人宣教師ジャック・マルケット神父、およびルイ・ジョリエがこの一帯を広く探検し、布教にあたっていた。1682年にはロベール=カブリエ・ド・ラ・サールがこの地を含むミシシッピ川流域を広く探検し、フランスの領有権を主張して「ルイジアナ」と名付けた。しかし、フランスがフレンチ・インディアン戦争で敗れた後、1763年のパリ条約により、この地を含むミシシッピ川以西のルイジアナはスペインに割譲された。1800年、サン・イルデフォンソ条約によってこの地は再びフランス領となったが、最終的には1803年のルイジアナ買収でアメリカ合衆国の領土に編入された。 ルイジアナ買収直後の1804年、当時の大統領トーマス・ジェファーソンの友人で、ジェファーソンよりルイジアナの探検を依頼されていたウィリアム・ダンバーは、住んでいたミシシッピ準州ナチェズからさほど遠くなく、またこの地の温泉の効能をかねてより耳にしていたこともあり、ホットスプリングスを遠征先に選び、フィラデルフィアから派遣された科学者ジョージ・ハンターと共に10月にナチェズを発った。同年12月にこの地に着いたダンバーとハンターの一行は、療養目的の訪問者が建てたと思われる1棟の丸太小屋と何棟かの木造の小屋を見つけた。一行はこの地に12月末までとどまり、6ヶ所の源泉を発見した。 1807年には、ルイジアナのプランテーション経営者ジーン・エマニュエル・プルドームが療養のためにホットスプリングスを訪れ、小屋を建ててこの地で2年間を過ごした。その後もこの地には訪問者が増え続け、1814年頃には、ホットスプリングスにはこうした訪問者が建てた小屋が20棟以上建ち並んでいた。しかし常住人口はまだ少なく、1820年の国勢調査では、既にアーカンソー準州領になっていたホットスプリングスの常住人口はわずか153人であった。 1832年、連邦議会はアーカンソー準州議会と準州知事からの長年の訴えを受け、温泉と周辺の山をホットスプリングス保護区に指定した。この結果、温泉は連邦の保護下に置かれることになった。この保護区は1921年にホットスプリングス国立公園に改称され、全米最初の国立公園となった。
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