浪々・晩年とは? わかりやすく解説

浪々・晩年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 06:04 UTC 版)

熊沢蕃山」の記事における「浪々・晩年」の解説

明暦3年1657年幕府と藩の反対派圧力に耐えがたく遂に岡山藩去った万治元年1658年京都移り私塾を開く。万治3年1660年)には豊後国岡藩中川久清招聘を受け竹田に赴き土木指導などを行った寛文元年1661年京都に居を移し多数の家下・武士町人師事された。その名声が高まるにつれ再び幕府監視されるところとなり、とうとう時の京都所司代牧野親成により京都から追放された。 寛文7年1667年)には大和国吉野山奈良県吉野郡吉野町)に逃れた。さらに山城国鹿背山(現・京都府木津川市)に隠棲する寛文9年1669年51歳の時、幕命により播磨国明石藩松平信之預かりとなった。このとき太山寺現神戸市西区)に幽閉される。以後著述専念した。『集義和書』を1672年寛文12年)に刊行し山・川治めることを国土経営基本とする考えをといた『集義外書』を1679年延宝7年)に著した。。 延宝7年1679年)信之の大和郡山藩転封に伴い大和国矢田山(現・奈良県大和郡山市)に移住する天和3年1683年)には大老堀田正俊招聘受けた辞退している。岡山藩致仕後、浪々の中で執筆活動とともに幕府政策、特に参勤交代兵農分離批判し、また岡山藩批判をも行った貞享4年1687年)、『大学或問』が幕政批判したとされ、蕃山69歳高齢にもかかわらず幕命により、松平信之嫡子である下総国古河藩主・松平忠之預けられ古河城内の竜崎頼政廓に蟄居謹慎させられた。しかし、蕃山治山治水技術古河藩でも頼りにされ、家老藩士たちを指導することがあったらしい。古河市内の関戸には「蕃山溜」と呼ばれる溜池残されている。また比較自由に領内歩き回れたようで、仕事帰り農夫呼びかけたものとされている自筆の詞句も残されている。 元禄4年1691年病を得古河城にて逝去享年73

※この「浪々・晩年」の解説は、「熊沢蕃山」の解説の一部です。
「浪々・晩年」を含む「熊沢蕃山」の記事については、「熊沢蕃山」の概要を参照ください。

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