浪々・晩年
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明暦3年(1657年)幕府と藩の反対派の圧力に耐えがたく、遂に岡山藩を去った。 万治元年(1658年)京都に移り私塾を開く。万治3年(1660年)には豊後国岡藩主中川久清の招聘を受け竹田に赴き土木指導などを行った。寛文元年(1661年)京都に居を移し、多数の家下・武士・町人に師事された。その名声が高まるにつれ再び幕府に監視されるところとなり、とうとう時の京都所司代牧野親成により京都から追放された。 寛文7年(1667年)には大和国吉野山(奈良県吉野郡吉野町)に逃れた。さらに山城国鹿背山(現・京都府木津川市)に隠棲する。寛文9年(1669年)51歳の時、幕命により播磨国明石藩主松平信之の預かりとなった。このとき太山寺(現神戸市西区)に幽閉される。以後著述に専念した。『集義和書』を1672年(寛文12年)に刊行し、山・川・森を治めることを国土経営の基本とする考えをといた『集義外書』を1679年(延宝7年)に著した。。 延宝7年(1679年)信之の大和郡山藩転封に伴い、大和国矢田山(現・奈良県大和郡山市)に移住する。天和3年(1683年)には大老堀田正俊の招聘を受けたが辞退している。岡山藩致仕後、浪々の中で執筆活動とともに幕府の政策、特に参勤交代や兵農分離を批判し、また岡山藩の批判をも行った。 貞享4年(1687年)、『大学或問』が幕政を批判したとされ、蕃山は69歳の高齢にもかかわらず、幕命により、松平信之の嫡子である下総国古河藩主・松平忠之に預けられ、古河城内の竜崎頼政廓に蟄居謹慎させられた。しかし、蕃山の治山治水の技術は古河藩でも頼りにされ、家老や藩士たちを指導することがあったらしい。古河市内の関戸には「蕃山溜」と呼ばれる溜池が残されている。また比較的自由に領内を歩き回れたようで、仕事帰りの農夫に呼びかけたものとされている自筆の詞句も残されている。 元禄4年(1691年)病を得て古河城にて逝去。享年73。
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