河合谷大根
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/06/02 04:03 UTC 版)
国府町では鳥取平野の市街化が進み、耕作地が減少してきた。そこで1970年代の終わりごろから、河合谷高原での早生ダイコンの大規模生産の試みをはじめた。冷涼な気候を利用し、冬野菜であるダイコンを夏に出荷しようという事業で、山麓の農家9戸が約40haの畑を開墾した。ダイコンは連作障害の顕著な作物なので、毎年ブナ林を伐採して新たに畑をつくっていった。当時この事業には5億円あまりの県の予算が投じられた。 河合谷ダイコンは端境期に出荷されるうえ、やわらかさで評判になり、鳥取県の名産品の一つにった。最盛期の1989年(平成元年)には700トンを出荷し、売上が1億円を超えるなど一定の成果を得た。しかしダイコンの収穫作業は機械化できず手作業で行われるものであり、重たいダイコンの収穫や積み込みは高齢者には厳しいものだった。後継者もなく、1994年(平成6年)までに9戸の農家全てが撤退してしまった。 県ではダイコン生産を再開するため1995年(平成7年)に公社を設立し、開墾地を借り上げて新規入植者に貸し付ける事業を始めた。3年間は農業を継続することなどの条件で、そのかわりにその間の住居費や農機具費など600万円余りを県が負担するほか、支度金、公社による農業指導などを提供して全国から入植者を募った。県の想定では応募者は数名程度と見積もっていたが、テレビやラジオでとりあげられたことで280名もの応募があった。選考の結果、最終的に5戸の入植が決まった。 5戸全てがまったく農業経験のない脱サラ家庭で、それぞれ数百万円を負担して1996年(平成8年)に入植がはじまった。5月に耕作がはじまったが、この年は大雨と冷夏がたたって水分過剰となり、肌裂けを起こして売り物にならないダイコンが続出した。これに追い討ちをかけたのがO-157による食中毒事件である。この年、隣県の岡山で発生したO-157食中毒事件で8名もの死者が出たのを皮切りに各地で同様の事件が相次ぎ、7月に大阪で起きた食中毒ではカイワレ大根が原因と厚生省が発表した。これを受けて、生食向きの夏ダイコンの価格が暴落、ダイコン生産の採算が取れなくなった。入植者たちはアルバイトをして生活することを余儀なくされた。結局、最終的には入植者全戸が赤字を抱えて撤退した。 その後、耕地を借り受けて、大幅に規模を縮小してダイコンを栽培している農家もおり、「河合谷夏大根」の名で特産農産物として扱われている。一方、山中の耕作放棄地をブナ林へ戻す再生事業も行われている。
※この「河合谷大根」の解説は、「河合谷高原」の解説の一部です。
「河合谷大根」を含む「河合谷高原」の記事については、「河合谷高原」の概要を参照ください。
- 河合谷大根のページへのリンク