河内領の支配
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 04:02 UTC 版)
河内領は甲斐南部に位置し、甲府盆地南西縁で釜無・笛吹川が合流した富士川が南北に流れる。富士川流域に平坦地が広がるが領域の大半は山地で、木材をはじめとした天然資源に富み、富士川添いには甲斐・駿河間を結ぶ主要街道のひとつである駿州往還(河内路)が通り、通商の要衝でもあった。 河内領では南部氏時代に南部の南部氏館を中心とした支配が行われており、穴山氏の入部後は南部氏館が穴山氏館となり、引き続き支配拠点になっていたと考えられている。一方、下山は穴山氏が武田氏に従属した信友期に居館が移転され城下町が開発された新支配地で、信君期には完成・発展し商職人が集住し、甲斐・駿河方面から身延山久遠寺への参詣客も往来した。 下山は南部と比較して甲府に近いため武田宗家に従属した政治的背景を反映しているが、一方で駿河今川氏の政治的中心地である駿府へも近く、信友・信君期に穴山氏は今川氏と独自の外交関係を築いており、一定の自立性をもっていたことも指摘される。 一方、河内領の伝統的中心地であった南部には南部宿が存在する交通の要地で、穴山氏の直轄支配であったと考えられており、穴山氏の菩提寺である円蔵院の寺領も存在する。 河内領は大半が山地である地理的特徴から、木材資源の産出など山の生業が盛んで、薬袋の佐野氏など代官の存在も確認される。また、板材加工を担う山造や鷹の飼育、下山大工などの番匠、狩猟などの山の諸生業が存在した。 ほか、戦国期甲斐国・武田領国には黒川金山など多くの金山が開発されているが、河内領においても北部の早川流域に黒桂金山・保金山や湯之奥金山などが存在しており、信友・信君期に代官を通じた金の採掘が行われている。こうした山の生業を営む諸商職人は領主である穴山氏の被官となり奉公関係を結び、在地有力者は穴山家中を構成し、佐野氏らの家老も輩出している。
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