気球司令部の問題
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気球司令部はアメリカ陸軍工兵司令部付きとなった。ローは大佐として給与を支払われていた(1日10ドル)が、1863年3月、コムストック大尉が新たに割り付けられた航空師団の任務に就くと、ローの給与は1日6ドル(金3ドル)に減額された。同時に航空師団に対するアメリカ合衆国議会の評価が下され、第3者による酷評する報告書もあって、ローは長々しい反論をすることになり、北軍指揮官層はそれ以上気球を使うことを止めた。ローは1863年5月に辞表を提出し、アレン兄弟が気球司令部の指揮を執ったが、8月にはその司令部も活動を止めた。
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気球司令部の問題
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1862年6月下旬の七日間の戦い中、マクレラン軍はリッチモンド郊外からの撤退を強いられた。ローはワシントンに戻った。湿気の多い状態にあったのでマラリアを患っており、1ヶ月足らず任務に就けなかった。ローが軍務に復帰すると、荷車、ラバおよび装置類が全て陸軍兵站部に返却されていた。実質的に失業状態になった。ローはアンティータムの戦いに従軍するよう命令されたが、戦場に到着したのは南軍がバージニア州への撤退を始めた後だった。ローはポトマック軍の新しい指揮官アンブローズ・バーンサイドに再度自分を売り込む必要があった。バーンサイドはフレデリックスバーグの戦いでローを活用した。 気球司令部はその成功事例があったにも拘らず、軍隊の社会の中で十分に歓迎されたことは無かった。依然としてカーニバルの興行師くらいに見られていた。粉骨砕身の努力にもほとんど考慮を払わない者もいた。気球司令部に何らかの価値を見出した者は、その職務や評判が危険に曝されている将軍達だった。低い階級の管理職はこの文民の部隊を軽蔑して見ており、軍隊での居場所が無かった。さらに、司令部の誰も軍隊の任官を受けておらず、捕獲されスパイとして待遇される危険性に直面したままであり、それは死罪を意味した。 気球司令部は最終的に陸軍工兵司令部の管轄となり、C・B・コムストックという1人の大尉の管理範囲に入った。コムストックは文民(ローのこと)が自分より高給を貰うことを喜ばなかったので、ローの給与を1日当たり金10ドルから通貨6ドル(金3ドルに相当)に下げた。ローは怒りの手紙を投函して、辞任すると脅した。誰もローを支持する者が出て来ず、コムストックは態度を変えなかった。1863年4月8日、ローは軍務から身を引き、民間事業に戻った。気球司令部の指令はアレン兄弟に残されたが、彼等はロー程有能ではなかった。1863年8月1日までに気球司令部は使われることが無くなった。
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