殺人で有罪、終身刑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/05 04:09 UTC 版)
「デイビッド・カーティス・スティーブンソン」の記事における「殺人で有罪、終身刑」の解説
スティーブンソンは1925年、成人の識字率を改善する州のプログラムを進めていた若き白人女教師、マッジ・オーベルホルツァーに対する強姦および殺人で起訴され、その裁判がインディアナ州ノーブルズビルで始まった。裁判中、スティーブンソンおよびその子分が、表向きは禁酒法を支持し、「プロテスタント的な女性らしさ」を守るとしていた一方、実は酒と女に溺れていたことが明るみに出るにつれて、「遵法精神にあふれ道徳的な」KKKのイメージは地に堕ちていった。このスキャンダルはやがて、KKKの「第2波」そのものを急速に衰退させた。スティーブンソンはオーベルホルツァーの拉致、強制泥酔、および強姦で有罪となった。加えて、スティーブンソンによる暴行がオーベルホルツァーの自殺未遂を引き起こし、やがて死に至らしめたことから、スティーブンソンは殺人でも有罪となった。 スティーブンソンは暴行の最中、オーベルホルツァーの肉体を幾度にもわたって噛んだ。立ち会った医師は、彼女の乳房に深い咬傷が検出されたと証言した。続けて、この医師は、この時にスティーブンソンがつけた咬傷からブドウ球菌感染が起き、彼女の肺に達したことが、死因の大きな部分を占めていると証言した。この医師はさらに続けて、もし彼女が早く治療を受けていれば、命を取り留めることができた、とも証言した。オーベルホルツァーは瀕死での告訴において、まず彼女がスティーブンソンとの結婚に同意しない限り、医師による治療を受けさせることを拒否された、と主張していた。陪審員は1925年11月14日、スティーブンソンに第2級殺人で有罪という判決を下し、その翌々日、11月16日に終身刑を言い渡した。 判決後、州知事エドワード・L・ジャクソンは、スティーブンソンの恩赦はおろか、減刑さえも拒否した。これに対し、スティーブンソンは1927年9月9日、スティーブンソンはインディアナポリス・タイムズ紙に、KKKからの賄賂を受け取っていた州政府高官のリストを公表した。同紙は獄中のスティーブンソンに取材し、KKKと州政府の癒着に関する調査を進めた。やがて州政府は、州知事ジャクソンを皮切りに、マリオン郡共和党議長ジョージ・V・コフィン、弁護士ロバート・I・マーシュ、インディアナポリス市長ジョン・デュボールと、要職者を次々と告訴した。また、マリオン郡共和党理事のうち何人かは、KKKやスティーブンソンからの賄賂を受け取っていたとして、辞任に追い込まれた。なお、この時の調査・報道により、インディアナ州政府の腐敗を暴いたとして、インディアナポリス・タイムズは翌1928年のピューリッツァー賞公益部門を受賞した。この報道に加えて、州当局によるKKKの活動に対する取り締まりの強化により、1925年には500万人を数えた会員は急速に減り、1920年代も終わる頃には、KKKは一気に瓦解した。
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