横浜新報もしほ草
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 07:13 UTC 版)
吟香は1868年6月1日(閏4月3日)にヴァン・リードと「横浜新報もしほ草」(以下「もしほ草」)を創刊する。ただし本紙には吟香の名前は掲載されず、リードは吟香が筆禍を免れる為の隠れ蓑というべき存在だった(当時リードが住んでいた横浜居留地は治外法権に設定されていたため、幕府も手出しできなかった)。実際、記事のほとんどは吟香の手によるものである。 「もしほ草」は木版刷り、半紙四つ折、四六判、一行20字詰め、一面10行、唐紙片面刷りの袋表紙、萌黄色の絹糸二箇所綴じであった。記事は仮名混じりの平易な文で書かれ、また広告記事が一切無かった。 吟香は創刊号で「…余が此度の新聞紙は日本全国内の時々のとりさたは勿論、アメリカ、フランス、イギリス、支那の上海、香港より来る新報は即日に翻訳して出すべし。且月の内に十度の余も出板すべし。それゆゑ諸色の相場をはじめ、世間の奇事珍談、ふるくさき事をかきのせることなし。また確実なる説を探りもとめて、決して浮説をのせず。…」と編輯方針を記している。吟香はこの方針に則って自由に記事を執筆した(ヘボンが手掛けた日本初の義足手術を報じたり、レオン・ド・ロニーがパリで刊行した邦字新聞『よのうはさ』を紹介したりしている)が、同時に「たゞ耳から耳へ聞き伝へたまゝを書き、或は毎度西国方が勝った事ばかりでは、江戸の人気は投ぜぬ」と感じており、佐幕派が多かった江戸の庶民にも配慮して「官軍が負けた」などという記事も載せていた。 「もしほ草」は柳河春三が創刊した「中外新聞」と発行数を争う人気新聞となったが、後続に次第に振るわなくなり、42号で廃刊となった(明治3年3月13日まで)。吟香自身は1870年頃に「もしほ草」を離れたらしい。
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