横浜(二次)指導時代
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1990年秋、渡辺と磯子駅で再会を果たす。渡辺率いる横浜は、小倉が去った2年後の1980年に自身がスカウトしたエース愛甲猛、安西健二らを擁し、夏の甲子園で優勝を果たした。しかし以降は甲子園に出場しても結果が残せないスランプ状態となっていた。一時期は自身が体調を崩し教え子が監督に就任し、渡辺は部長に退いたこともあった。その当時は、渡辺が監督と部長を兼任していたが監督に専念するため、渡辺は小倉に戻って来て欲しいと要請した。小倉はかつて横浜監督在任時代の時の事もあり、すぐに返事を出さなかったが承認した。 渡辺の勧めもあり、昼は横浜硬式野球部コーチを務める傍ら、同校の事務職員として勤務し、夜は教職免許取得の為に、母校である東京農業大学の夜間部に通った。 教職免許取得後の1994年、渡辺の後任部長として横浜硬式野球部部長に就任、更には同校の保健体育科教諭となった。これで事実上、指導する立場として古巣の横浜に戻る事となった。 硬式野球部長(監督待遇)として監督の渡辺と二人三脚ならぬ「二人監督制」で数々の選手を育てた。その中で特に松坂大輔は小倉が発掘し、育成したことは有名。高校野球界では渡辺監督を補佐する名伯楽として有名で主に技術面を指導する。対戦校の投手陣や打線、戦術を徹底的に分析して「参謀」と知られ、対戦校の特徴を事細かに記したノートは「小倉ノート」と呼ばれており高校野球界では有名である。ベンチ入りしていた際には監督の渡辺とともに自らもサインを出すなど積極的に動いていた。
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