権益獲得の理由
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/20 15:21 UTC 版)
大山崎油座が他の油商人に優越する特権を得たことの背景には、彼らが離宮八幡宮・石清水八幡宮の神事に携わった神人であるという特殊な立場があった。石清水八幡宮は都の南西すなわち裏鬼門にあたり、鬼門(北東)の比叡山延暦寺とともに王城の守護神として皇室・貴族から篤い崇敬を受けているとともに、源氏・足利氏の氏神として、武士からも八幡神信仰を受けたため、朝廷・幕府から特別な存在として認識されていた。 ただし彼らが権益を拡大したのは、必ずしも公武による八幡宮への崇敬心からのみではなく、神人らの積極的な行動があった。すなわち神威による実力行使「嗷訴(強訴)」である。中世において南都北嶺の僧兵・神人らは(興福寺の場合は春日大社の神木、比叡山の場合は日吉神社の神輿)、しばしば堂々と洛中に神輿を担ぎ出すことで公然と「神威」をかざし、その上で数々の無理な要求を行った。要求が受け入れられない場合は、神輿を御所や六波羅探題前に放置し、その政治機能を停滞させるという強引な手段である。 大山崎の神人たちも南都北嶺の僧兵らと同様、上記のような諸権益が侵害されたり、あるいは新たな特権を拡大要求する際には、石清水八幡宮の神輿を持ち出して入洛し、神威をかざして朝廷・幕府に圧力をかける嗷訴(「神訴」と呼ばれる)に及ぶことがたびたびあった。初見は弘安2年(1279年)に日野資宣の日記に記載されている、大山崎神人が八幡神輿を盗み出して入洛した件で、その後時代が下るにつれ頻発するようになる。また強訴のほかに閉籠(抗議のために引き籠もること)という手段も採られた。これは重要な祭礼である「石清水放生会」の延滞を質にとった神訴といえる。室町時代に幕府が大山崎神人に与えた安堵状・裁許状は7月から9月にかけてのものが非常に多く、特に8月に集中しており、勅祭であった毎年8月15日の石清水放生会前後を狙って強訴・閉籠を起こし、無条件かつ強引に勝訴判決を得ていたことが伺える。石清水放生会に支障を来すことは八幡宮を崇敬する朝廷・幕府にとって避けなければならない事態であった。この弱みを知る大山崎神人が様々な要求を朝廷・幕府に飲ませ、特権を拡大してきたのである。
※この「権益獲得の理由」の解説は、「大山崎油座」の解説の一部です。
「権益獲得の理由」を含む「大山崎油座」の記事については、「大山崎油座」の概要を参照ください。
- 権益獲得の理由のページへのリンク