権知高麗国事から権知朝鮮国事
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「李成桂」の記事における「権知高麗国事から権知朝鮮国事」の解説
1392年7月、国家の方針を決定する都評議使司は新興官僚層が推戴した李成桂に即位を要請し、恭譲王を追放した。「禅譲」の形式による新国家樹立であった。李成桂は、「権知高麗国事」を正式に名乗ったが、「知」「事」が高麗を囲んでおり、「権」は日本の権大納言・権中納言と同じで「副」「仮」という意味であり、「権知高麗国事」とは、仮に高麗の政治を取り仕切る人という意味である。このように李成桂は、事実上の王でありながら、「権知高麗国事」を名乗り朝鮮を治めるが、それは朝鮮王は代々中国との朝貢により、王(という称号)が与えられたため、高麗が宋と元から王に認めてもらったように、李成桂も明から王に認めてもらうことにより、正式に李氏朝鮮となる。小島毅は、「勝手に自分で名乗れない」「明の機嫌を損ねないように、まずは自分が高麗国を仮に治めていますよというスタンスを取り、それから朝貢を行い、やがて朝鮮国王として認めてもらいました」と評している。王位に就いた壬申年7月17日(旧暦)、つまり1392年8月3日(陽暦)から癸酉年2月14日、つまり西暦1393年3月26日まで李成桂は形式上では高麗の王であり、1393年3月27日から正式に朝鮮王となった。吉田光男によると、明の初代皇帝朱元璋は李成桂には1392年に権知高麗国事という称号を与え、国号を変更を迫った後に李成桂が提案した「和寧」「朝鮮」の二つから朝鮮へ変えることを1393年に認めた後も権知朝鮮国事とさせた。その結果、第三代権知朝鮮国事だった太宗が1401年に明の建文帝から朝鮮国王の称号を受けたときは、王朝開設から12年が過ぎていてた。そのため、死後に太宗によって、初代朝鮮国王の称号が与えられた。
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