権益拡大と周囲との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 14:39 UTC 版)
こうした戦乱を通じて鷹山氏は様々な権益を獲得しており、大和では清澄荘(奈良県大和郡山市)や長屋荘(奈良県天理市)に知行を持ち、大和国外でも若狭国の西郷(耳西郷か、福井県美浜町)の知行を所望し、興福寺別当領である播磨国の土山荘(兵庫県播磨町)の経営を鷹山掃部が請け負うなどした。また文明12年(1480年)には油売買をめぐる相論や火鉢作公事銭をめぐる相論に関与し、永正4年(1507年)には官符衆徒の候補に挙がるなど、その存在感を強めていた。 一方、鷹山氏と周辺の国人らとの関係を見てみると、鷹山奥頼栄の弟が琵琶小路氏の名跡を継いでおり、その頼栄の弟は古市澄胤の娘を娶っていた。また同じ頃、幕府奉公衆である宇治の槇島氏に鷹山氏の娘が嫁ぎ、後年、鷹山荘の西隣にある田原荘(大和国添下郡、河内国讃良郡)の坂上氏にも鷹山弘頼の娘が嫁いだ。婚姻関係以外でも周辺国人との間に協力関係があり、天文末年(1550年代前半)から永禄年間(1570年まで)に近隣の尾崎氏との間で喧嘩が起こった際には草内西氏や草内安楽寺氏、番条氏に郡山氏が合力に駆け付けた。天文22年(1553年)に弘頼が死去した際には筒井氏ら大和国内外の16氏から弔状が送られ、いざという時は合力するとの旨が伝えられている。
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